日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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7月29日におきた衝撃的出来事! 忘れてはいけない!日本人が虐殺された通州事件

1937年(昭和12年)7月29日、
中国の通州で、
多くの日本人が悲惨な方法で殺されました。

通州事件です。

 

(序章:通州事件とは)

通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日(木曜)に、北京市に隣接する通州と言う地区で、多数の日本人が残忍な方法で殺害された大事件です。

当時、通州には、冀東(きとう)防共自治政府があり、その治安部隊である保安隊が、日本軍守備隊やそこに住む日本人や朝鮮人を襲撃し虐殺しました。
犠牲になられた方の内訳は日本人114人(10歳以下12人)朝鮮人111人(同13人)です。(犠牲者数はデータにより違いあり)
しかも女性は強姦されて刺殺され、子供は指を切断されたり、また一部の人は手に穴をあけて引きずり回したうえで殺すなど、残虐の限りが尽くされました。
通州事件のあと、日本軍に救出された居留民は、日本人73人、朝鮮人58人の合計
131人で、つまり、通州にいた日本居留民の半数以上が通州事件によって亡くなったことになります。

 

(1,当時の歴史的背景)
この頃の中国は、統一国家ではなく、蒋介石中華民国、北京近くには冀東防共自治政府、瑞金には中華ソビエト共和国、東北部には満州国などがあり、さらに軍閥が実効支配する地域もあるなど混沌とした状況でした。

さらに、この通州事件の起きる3週間前の1937年(昭和12年)7月7日には、北京市郊外の盧溝橋で日中両軍が軍事衝突を起こし、日中戦争が始まります。

このような背景をかかえた中国大陸の中で、通州事件はおきました。

 

(2,冀東防共自治政府とは)

通州事件がおきた通州がある冀東防共自治政府とは何なのか、見てみます。

冀東防共自治政府は1935年(昭和10年)12月25日に樹立され 1938年(昭和13年) 2月
1日に中華民国臨時政府に合流されるまで中国河北省に存在した政権です。

「防共」の文字があるように共産主義勢力に対する政府で、冀東防共自治政府の「冀」は河北省のことです。

冀東防共自治政府は、長城の南の中国軍が入る事ができない非武装地帯に作られました。

 

下は、冀東防共自治政府の正門前の写真です。

(出典:冀東政権の正体(昭和12年出版)7ページより:国立国会図書館デジタルアーカイブス・https://dl.ndl.go.jp/pid/1281558/1/7

 

冀東防共自治政府は、周囲の地方自治を求める民衆の動きを背景に殷汝耕により成立したとされますが、日本側の特務機関の工作活動により設立された傀儡政権だという意見もあります。

1935年(昭和10年)11月25日に殷汝耕が、中国政府と分離して樹立した冀東防共自治委員会がその母体で、12月25日には委員会が改組して冀東防共自治政府が成立します。そして殷汝耕は政務長官に就任し全ての政務を掌握します。
ちなみに殷汝耕の婦人は日本人です。

(出典:「冀東政権大秘録:通州事変1周年を迎へて」6ページ(昭和13年刊行):国立国会図書館デジタルアーカイブスよりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1274532/1/6

 

(3,通州事件の経緯)

1937年(昭和12年華北地区で日中が全面的に戦っていた7月28日夜、日本軍の飛行機が、親日的だった冀東防共自治政府の保安隊に間違って爆弾を投下します。
これを攻撃と誤解した冀東防共自治政府の保安隊=中国人部隊が、翌29日に日本軍の
通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民に対し報復攻撃を行います。

下の写真は冀東防共自治政府警護団の幹部教習所です。攻撃で受けた弾痕がその凄さを
物語ります。

 

(4,猟奇的な殺害、処刑)

日本軍の通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅します。
さらに保安隊は、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行います。
当時の日本人居留民は約380人ですが、その大部分は惨殺されました。
女性は強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺された方や、陰部を銃剣で刺されていた方もいました。
日本人男子の死体は首に縄をつけて引き回した跡がありました。
目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた男性や鼻に針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、付近の池は血で赤く染まっていたそうです

 

(5,終焉)

このようなむごたらしい殺戮行為が各地で繰り広げられた通州は、臨時航空兵団が空からの支援を開始した結果、中国保安隊の主力が退きます。残留部隊は依然、攻撃を継続します。

 

保安隊が最後まで立てこもり抵抗したのが冀東仏教会でしたが、ようやく鎮圧されます。


こうして終焉を迎えた通州事件でしたが、生き残った人たちは、むごたらしい手口に対し、口をそろえて「これは第二の尼港事件だ」と語ったそうです。

尼港事件に関しては下をクリックして御覧下さい。

 

10年前には漢口でも・・)

この通州事件の10年前の1927年(昭和2年)同じく中国大陸で日本人に対するむごたらしい殺戮が起きています。漢口事件です。その詳細は下をクリックして御覧下さい。


(6,証言者の声を聞く機会に恵まれたが・・)
1990年代に、この通州事件に遭遇した方を紹介していただいていたのですが、タイミングが合わずお会いすることができず、この方はお亡くなりになりました。非常に残念です。

(7、通州事件を取り上げた書籍)
通州事件に関しては、色々な本が出版されています。
購読しなくてもいいので、まずはどのようなものなのか、下をクリックして中味の詳細を御覧下さい

 

(8,最後に)

この通州事件は、邦人が残虐な殺され方をした事件です。
しかし日本史の教科書にはほぼ掲載されていませんし、この事件が起きたことを
知らない方もいます。
私たちの先人がどのような目にあったのか、伝え残していくべきだと思います。

 

※ここに掲載した写真はすべて事件当時の物であり、パブリックドメインです。