日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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終戦直後のRAA,朝鮮戦争でのRRセンター ~日本人女性が米兵の性処理の相手にされていました~

太平洋戦争に負けた日本は、
有史以来初めて外国の占領下になります。
それは同時に
日本人女性が占領軍の性の対象になった
悲しい始まりでもありました。
RAA,そしてRRセンターがあったことを
忘れてはいけません。

(占領軍の性の防波堤RAA)

太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)地上戦が繰り広げられた沖縄では、上陸した米軍の性の暴走が止まらず、統計がないので正確な数はわかりませんが、沖縄の女性の多くが被害を受けています。

そして終戦を迎えると、日本に進駐してくる占領軍が、同じように日本各地で性暴力を起こさないようにと、RAAが設置されました。
RAAは「レクリエーション&アミューズメント・アソシエーション」の略です。
この英語名は、日本語では、「特殊慰安施設協会」と訳されます。
このRAAの設立に関しては、「占領軍の日本女性への性被害を懸念した日本政府が発案した」、あるいは「占領軍側からの要請があった」という説があります。

(RAA~生きていくために~)

1945年(昭和20年)8月27日に、RAAの第1号となる「小町園」が東京都大田区に開業します。

RAAで働く女性たちは、宿舎、衣服、食料すべて支給と言う条件で公募されました。

当時は、終戦で焼け野原になり、女性たちは就職できる職業が少なく、さらに終戦による超インフレや物不足で生活が苦しい状況でした。そのため、生きるためにRAAに志願する人も多くいました。

RAA第一号の「小町園」を皮きりに、東京都内では終戦の3ヶ月以内に立川、調布、
福生、北多摩、築地、人形町向島などに次々と慰安所が開業しました。
さらに東京、広島、静岡、兵庫県山形県秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などにも設置され、最盛時には7万人の女性が働いていたという話もあります。


(RAA安浦ハウス)

下の写真は、神奈川県横須賀のRAA安浦ハウスです。この人だかり!!
安浦ハウスは、性病が蔓延したために閉鎖しました。その結果、横須賀の街では米兵による性暴力事件が多発したそうです。
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また名古屋には連合国軍の女性兵士用の「慰安夫」も存在したそうです。

(RAAの終焉)

1946年(昭和21年)3月26日に連合国軍東京憲兵司令官官房「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」(オフ・リミッツ令)が通達し、RAA施設は閉鎖されました。
閉鎖の理由は、ポツダム宣言による公娼制度廃止の方針と、元アメリカ大統領夫人エレノア・ルーズベルトの反対、また性病にかかるGIたちが増え続けるという理由があったと言われます。


(占領軍相手の性的サービス)

RAA以外にも占領軍相手の性的サービスは各地に誕生します。
下の写真は、浮島屋、バーホールですが、鉄条網が張られていて周囲と分けられ、看板には、「スペシャルサービス」と書かれています。

 

また、不特定多数の米兵を相手にするRAAとは別に、特定の軍人と愛人契約を結ぶ“オンリーさんも登場します。


つい数日前まで、占領軍の兵士は、家族を殺し、故郷や家を焼いき、鬼畜米英と呼ぶ憎悪の対象でした。
しかし戦争で負け占領された困窮期に、世間から白い目で見られながらも、自らの身体で生計を立て生き抜こうとした彼女たちを責めることはできません。

占領軍による報道規制が敷かれていたため、
正確な数字はわかりませんが、
敗戦後は、米兵による日本人一般女性への暴行が
相次いでいたそうです。しかも敗戦国という立場上、被害を受けても泣き寝入りになるケースも多かったそうです。

朝鮮戦争時のRRセンター)

1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮軍が突如南下をはじめ朝鮮戦争が勃発します。
ちなみにこのとき、まだ日本は占領下でした。
朝鮮半島での北朝鮮軍と米軍を中心にした国連軍との戦いは熾烈を極めたため、激闘を繰り広げる米兵への慰問の一環として、米軍は帰休制度を設けます。

この制度では、朝鮮戦争の前線で戦う米兵が、5日間の休養を与えられ、日本に戻ります。
そのときの日本での休養施設としてRRセンター=Rest& Recreation Centerが設けられました。

RRセンターは、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって作られたもので、当初は横浜、大阪、小倉の3か所にありました。

平城京の周辺に)

1952年(昭和27年)51日、大阪にあったRRセンターが奈良県奈良市横領町、現在の平城京跡周辺に移設されました。

奈良RRセンターは、宿泊施設ですから、それ自体は性的慰安施設ではありませんでした。
奈良RRセンターがおかれた場所には、劇場、クラブ・バーなどが80余りの店がならぶ米兵専用の巨大な歓楽施設となり、ネオンが輝き、にぎわっていたそうです。

そこに、米兵を相手に性ビジネスをしよう と全国から3,000人ともいわれる女性が集まり、奈良RRセンター一帯は、巨大性売買の地となっていきました。

こうして朝鮮戦争の米兵の性処理として大繁盛をしていた奈良のRRセンター一帯ですが、風紀と治安の悪化が進んだことから反対運動が激しくなります。
そして1953(昭和28)年8月、神戸への移転が決定し翌9月には奈良RRセンターは閉鎖され、神戸へ移転しました。

終戦後、外国の占領下になった日本で
生きるために
米兵相手に
日本女性の性が捧げられていた!
・・という事を
忘れてはいけません!