1943年(昭和18年)8月18日、
“兵隊さんに育てられたヒョウ”のハチが毒殺されます。
(出会い)
日中戦争中の1941年(昭和16年)2月28日、中国の湖北省陽新県に、高知出身の隊員を中心とした「鯨部隊」(歩兵第236連隊)が駐屯していました。
その部隊の小隊長の成岡正久第三氏は、当時41歳。高知出身で、大学卒業後に召集されました。
その小隊長のもとに、現地の中国人から要請が来ます。
牛頭山と呼ばれる岩山に3mもの大きなヒョウがいて、家畜や人を襲撃するので退治して欲しいというのです。
そこで成岡小隊長が部下3名を連れて山に入り、ヒョウがいる洞窟に、燃える木々を投げ入れ、焼き討ちをします。しかし、大きなヒョウの姿はなく、代わりに生まれたばかりの2頭の赤ちゃんヒョウを発見します。
成岡さんは、この2頭を部隊に連れて帰り、1匹は鉱山で働く日本人技師に預け、首筋にやけどのあとが残るもう1匹を鯨部隊で飼うことにしました。
(部隊のマスコット・ハチ)
鯨部隊「第二大隊」第八中隊に連れてこられた赤ちゃんヒョウは雄で、第八中隊の「八」から、“ハチ”と呼ばれるようになります。
そしてこの日からハチは鯨部隊の一員となります。
飼育係に任命された一等兵の橋田さんは軍服のいちばん上のボタンを外し、ハチの顔を出すようにして服の中に入れて育てます。橋田さんは自分の御飯を噛んで軟らかくして、口移しでハチに食べさせたそうです。
また成岡小隊長は任務を終えると、夜は宿舎でハチと一緒に寝ていました。
殺伐とした戦場に勤務し、いつ帰国できるかわからない男所帯の兵士達にとってハチと遊ぶことは気分転換や心の癒しとなりました。同時にハチも部隊の中で愛情を注がれ育ちます。
(ハチと兵隊)
鯨部隊「第二大隊」第八中隊に連れてこられた赤ちゃんのヒョウ・ハチは、軍隊生活にも慣れ、兵士たちの夜間歩哨勤務にも同行したり、また炊事場で盗み食いをするネコや野良犬を退治してくれました。野外演習にも同行したそうです。さらに夏の水泳演習でも、ハチは同行し、隊員と一緒に泳いでいたそうです。
他の分屯隊から陽新県の中隊本部に事務連絡などでやってくる兵士たちは、ハチのために大きな鹿や野鳥を射止めて運んできました。そして兵士たちが帰隊するときには、
ハチは東門まで必ず見送りに出たそうです。
ハチはさらに連隊長からも「この猛獣は危険ではない」とお墨付きをもらい鯨部隊への帯同も認められました。
こうしてハチは成岡さんや部下の兵士たちを家族と同様に慕い、兵舎を住みかとして、毎日を過ごしていました。ハチは日本軍の軍服を着用した兵隊にはなついて、部隊のマスコットとなっていきます。成岡さんが外出するときには、静かに後ろをついて歩くことが何度もあったそうです。
(上野動物園へ)
1942年(昭和17年)4月、日本は米軍による初の本土空爆を受けます。
そこで日本軍は、当時、米軍機の着陸地点となっていた中国本土にある航空基地の撲滅作戦を始めます。
この作戦に鯨部隊も動員されることになり、部隊はハチを同行できなくなりました。
そこで成岡さんは様々なツテをたどり1942年(昭和17年)5月に、ハチは東京の上野動物園に送られます。
上野動物園に送られたハチは 6月1日に初お披露目。
ハチは「兵隊が育てたヒョウ」として新聞にとりあげられ、たちまち有名になり上野動物園の人気者として人々を楽ませます。
下の写真は1942年か1943年(昭和17年か18年)に撮影された上野公園内のハチです。
(最後)
1943年(昭和18年)8月16日、戦況の悪化による食糧難と、空爆で動物園から動物が逃げ出したら危険なことから、上野動物園に猛獣処分の命令が下されます。
それを受け、翌17日から、上野動物園では、わずか3gで体重300kgのヒグマを絶命させる猛毒の硝酸ストリキニーネを飲ませ、ツキノワグマ、ライオン、トラ、チーターなどを次々と毒殺します。
そして8月18日、ついにハチの番がやってきました。
ハチは、動物園の係員が用意した硝酸ストリキニーネを混ぜた餌を口に入れ死亡します。
こうしてハチは2年6か月の生涯を閉じました。
死後ハチは剥製にされ上野動物園に保存されました。
全国各地の動物園でも、上野動物園と同様に、動物の殺処分が行われ、少なくとも全国で150頭を超える猛獣が殺されたそうです。
(再会)
ハチが死亡した1週間後の8月26日、成岡小隊長は、2か月の特別休暇を与えられ、高知に帰ってきていました。そして電報でハチの死を知りショックを受けます。
終戦を迎え地元高知に戻ってきた成岡さんは、ハチを何とか自分のそばに置きたいと思い、上野動物園にハチの剥製の引きとりを申し出ます。
そして1949年(昭和24年) ハチの剥製が成岡さんに寄贈されます。
成岡さんは、高知市内で喫茶店「パンサー」を経営します。パンサーは英語でヒョウの意味です。
この喫茶店に、ハチの剥製が飾られていました。成岡さんは毎朝、剥製の横に腰かけてコーヒーを飲むのが日課で、また、お客さんがハチに気づくと、当時の思い出話をしていたそうです。
(その後)
1981年(昭和56年)4月、成岡さんは、この年の2月に開館したばかりの 高知市子ども科学図書館にハチの剥製を寄贈します。高知市子ども科学図書館では、シンボルマークとしてハチのイラストを使っていて、毎年8月の第1週の日曜日には、紙芝居を使ったハチの読み聞かせイベントも開いていました。しかし高知市子ども科学図書館は2018年(平成30年)2月11日に閉館しました。
成岡さんは、1994年(平成6年)6月1日に84才で亡くなりますが、ハチの剥製は、2018年(平成30年)7月24日から高知市子ども科学図書館を引き継いだ形となった、
高知みらい科学館にやってきました。
成岡さんの言葉です。
《私たちの青春時代は戦争で明け暮れた。
そして勝敗がいずれであろうと、
戦争は人類最大の罪悪であり、
悲劇であることも身を以って体験した》
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・・・8月18日は、
中国大陸で日本軍に保護され、
兵隊さん達に育てられ愛されたヒョウのハチが
戦争がもたらした悲劇でなくなった日です。