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大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレ,あらすじ 35話「欲望の怪物」

 

今回からタイトルバックがリニューアルしましたね。家康が秀吉に臣従したので次の章に入ったと言うことでしょうか?
第35回「欲望の怪物」の平均世帯視聴率は10・1%でした。では、ストーリーを見ていきましょう。

 

(大政所岡崎へ)
家康は、しぶしぶながら、ようやく大坂城に行き秀吉に会い臣従することを決めました。そのため秀吉は、家康の上洛と引き換えに母・仲を人質として岡崎へ送ります。
大政所は岡崎にやってきましたが、年老いた自分をこんな遠くへやるなんて、機嫌が悪かったのです。しかし、美少年の直政を気に入り、悪かった機嫌も次第に回復していきました。

 

(家康上洛)
大政所到着の数日前の10月14日、家康は上洛に向かって旅立ちます。

家康が到着すると秀吉は歓待し、妻の寧々や弟の秀長を紹介します。
やがて宴席が始まりました。一人大はしゃぎする秀吉に対し家康や家康家臣団は冷めていますが、しかたなく酒を飲みます。

秀吉は家康家臣の1人1人を寧々に紹介します。
そして鳥居元忠には、家臣にならないかとスカウトします。
秀吉は、家康が来たことが嬉しいのか、よくしゃべり宴を続けますが、家康たちは全然楽しくありません。やがて、秀吉は酔いつぶれて寝てしまいます。
その姿に寧々は「こんなに酔いつぶれるのは久しぶり」だといい、弟の秀長は、「人を知るには、下から見上げるべし。兄は、昔から言うておりました。人は相手を下に見ているときに本性が現れると。みっともねえ姿をさらして、常に下から相手の本性を見極めると。また、信用が出来ると思えた人は2人だけ。信長様と徳川殿。この2人には、表裏がないと。信長様が目指したものを受け継げるのは、今や兄と徳川殿しかいません。だから、兄は徳川殿が来てくれて本当にうれしかったのだと思います。どうぞ、末永く支えてやってくだせえ。」と。
秀吉の奥さんの寧々と弟の秀長、この2人が秀吉をうまくサポートしていることがよくわかります。

(陣羽織)

家康は「殿下が人たらしと言われる所以がわかりました。秀長殿に北政所さま、よいお身内をお持ちでございますな。起きておいででしょう?」というと、秀吉は目を開け「お前さんにはかなわんは」と言います。

家康は「もう殿下に陣羽織を着させぬ覚悟」と言います。この意味は、「争いが無いから陣羽織を着る必要がない」ということです。これを聞いた秀吉は「明日、一同の前でそれやってちょーでぇ」と一芝居打つように懇願します。策士秀吉ですね。

 

(大名達の前で大芝居)
翌日、大坂城の広間には、たくさんの大名たちが集まりました。
そこで、家康は、「徳川三河守家康、関白殿下のもと、天下一統に励みまる。ついては、殿下の陣羽織を頂戴しとうございます」と言います。前夜の打ち合わせ通り、陣羽織は戦に着ていくもので、家康が二度と秀吉を戦に出ずにすむようにする、という意味を大名達の前で宣言した大芝居です。

こうして、うまくいきましたが、秀吉は、「ここに来なかった大名がおる。わしゃあ、そやつらを叱り飛ばしに西にむかう。おめえさんは、関東の北条を頼む。軍勢を差し向けて叱り飛ばしてちょうだい。」と家康に言います。

これを聞いた家康は秀吉に、北条もさることながら真田に手を焼いている事を告げます。

すると秀吉は、真田に、徳川が豊臣に従属することから真田にも言うことを聞くように書状を送っていました。

 

(海外侵略)
家康が帰る前、秀吉は日本地図をじっと見つめていました。「戦がなくなったら武士どもをどうやって食わしていく。民もじゃ。民ももっともっと豊かにしてやらにゃいかん。日の本を一統したとて、この世から戦がなくなることはねぇ。切り取る国は日の本の外にまだまだあるがや。」とつぶやきます。のちにつながる秀吉の世界侵略の前触れです。

 

石田三成との出会い)
大坂を発つ前夜、家康が、外を見ているとある男と遭遇し、一緒に星座の話で盛りあがります。その男は、後に関ヶ原で戦うことになる石田三成です。

星座の話で話が盛り上がる2人の姿を見て家康家臣の酒井忠次は「家中には、ああいう話ができるものがおらんからな。殿は、戦の話ではなくああいう話がしたかった人なんじゃ。戦なき世が近づいている。そんな気がするわい。」とつぶやきます。

その翌日、家康は浜松城に帰りました。

 
(母の思い)
家康と秀吉が無事大坂城であったことで、人質としての役目を終えた大政所は、大坂へは帰りたくないと言い「関白って誰じゃあ。ありゃ、わしの息子なんかのう? わしゃ、あれのことをなんも知らん。わしゃ、ただの貧しい百姓で、ずっと働きづめで、しつけの一つもしとらん。何年かして、ひょっこり帰ってきたら、織田様の足軽大将になっとった。それからは、あっちゅう間に出世して、今は天下人……、関白じゃと」と。

 さらに「とんでもねえ、化け物を生んでまったみたいで、おっかねえ。誰かが、力づくで首根っこ押さえたらんと、えれえことになるんでないかのお、そう徳川殿にお伝えしてちょう」と懇願します。
生みの親も肥大化する秀吉に恐れを抱いているのでした。

(真田)
さて、秀吉とは友好関係を築いた家康ですが、彼が頭を抱えるのが真田勢です。
真田は、徳川が北条との和睦の際に北条に譲った沼田領に居座っていました。

そこで1587年(天正15年)3月18日、家康は真田昌幸と息子・信幸と会いました。

酒井忠次は「真田殿、色々ありましたが、こうして参じてくれたのは大変結構なこと。しからば、沼田の地を北条に渡してくれますな。」と言いますが、返事が来ません。

ようやく口を開いた真田昌幸は、「徳川殿には、幾度となく同じことを聞かれ、その度に同じお答えをしてまいりました。それでも、まだ同じことを・・・徳川殿は言葉がおわかりにならないのかと。」と攻撃的な口調で言います。

そして昌幸は突然、家康の後ろにある壺を見て「見事な壺でございますな。信幸、この壺をそなたにやろう。」といいます。

それを聞いた大久保忠世が「お主のものではなかろう。」というと昌幸は「他人の物を人にやることができない。同じように沼田は我らが切り取ったもの。徳川殿が、北条にやることはできませぬ。」といいます。

ここに本多正信が登場し「真田殿、貴殿は徳川の与力でござる。ならば、徳川に従わねばならぬ。沼田を明け渡していただけませぬか。」と言いますが、「できませぬ。与力であっても所領を差し渡す道理はありませぬ。」と受け付けません。

家康は「沼田のことはわしにも落ち度があった。かわりに所領を与えよう。それでどうじゃ。」と譲歩しますが昌幸は首を縦には振りません。
そして、「息子の信幸に、徳川殿の姫をいただくのはどうでしょう。」と提案します。

大久保忠世は、「何を無礼な。身の程をわきまえよ。」と言いますが、逆に、その答えが、真田を見下していると言われます。

酒井忠次は、「あいにく殿には、年頃の姫がおりませぬ。」というと、「ならば、重臣の姫を徳川殿の養子にしていただいてもかまいませんが。」と。真田はなかなか戦略家です。この真田の申し出に、家康は考え込みます。
次回に続く###