1615年5月8日、
大坂夏の陣で豊臣秀吉の息子の秀頼と、
その母淀殿が自害し豊臣家が滅亡します。
(豊臣秀吉死去、天下取りに動く家康)
1598年、豊臣秀吉は62歳で死去します。
この時、跡取りの豊臣秀頼は5歳の誕生日を迎える直前でした。
秀吉の死後、徳川家康は天下取りにむけ、本格的に動きます。
1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成勢を破り、1603年には、家康は征夷大将軍に
就任し江戸幕府を開きます。
ちょうど同じ年に秀頼は家康の孫の千姫と結婚します。
この千姫は、秀頼の母親・淀殿の妹・江と2代将軍家忠の間にできた子供で、
これは従妹同士の結婚でした。
1605年には家康は将軍の座を息子の家忠に譲り、徳川政権の体制を固めていき,
豊臣家の扱いは軽んじられていきます。
(豊臣家滅亡へ)
1614年には、方広寺鐘銘事件が起きます。
秀頼が命じて作らせた京都の東山にある方広寺の鐘に刻まれた文字「国家安康」
「君臣豊楽」が徳川家康の「家」と「康」を分断し、その一方で豊臣家の繁栄を祈願していると言い出したのです。
それをきっかけに家康は大坂城を攻め(大坂冬の陣)、大坂城の堀が埋め立てられます。
そして翌年1615年には、大坂夏の陣が起きます。
この時は、もう徳川の時代で、豊臣に味方する大名は少なく、また堀が埋められてしまったため大坂城は攻められ落城します。
豊臣方は、徳川家康の孫で秀頼の妻である千姫を通じて秀頼の助命を嘆願しますが、
受け入れられませんでした。
追い詰められた豊臣秀頼と淀殿が、大阪城天守閣の北側にある山里丸にあった櫓に
ひそみ、自害したという記録があります。淀君50歳、秀頼は23歳でした。
なお、秀頼には側室に産ませた男子の豊臣国松がいました。当時8歳でした。
この国松は、大坂夏の陣後に徳川勢に捕らえられ、引き回しのあと首を切られています。
(大阪城に残る秀頼淀君自害関係の碑)
大坂城には是非とも寄って欲しい場所が2つあります。
「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑と「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」です。
【「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑】
淀殿と秀頼が自害したという地には「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑が立っています。
【 「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑について書いたブログはココ】
【「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」】
「秀頼 ・淀殿ら自刃の地」碑の近くには「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」があります。
【「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」について書いたブログはココ】
「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑と
「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」にも
足を運んでもらいたいものです。
【大阪城公式HP】
【大阪城観光ガイド】
<<「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑、および「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」
の行き方>>
いずれもすぐ近くの場所にあります。
JR「大阪城公園駅」から徒歩15分
・・・ということで