(萩城下町すぐ近くにある久坂玄瑞像)
薩摩藩とともに江戸幕府倒幕及び明治日本建設の重要な役割を果たした長州藩。
その長州藩の萩城城下町のすぐ近くにある萩市中央公園に久坂玄瑞進撃像が立っています。
銅像の高さは約1.8メートルで、台座を合わせると約3メートル。この像は高杉晋作の像を手掛けた彫刻家の江里敏明さんの作品です。
禁門の変から150年=久坂玄瑞没後150年にあたる2014年(平成26年)から制作され、翌年の2015年(平成27年)1月24日13時頃に除幕式が行われました。
(幕末の志士・久坂玄瑞)
久坂玄瑞は1840年5月に萩藩医の三男として誕生しました。藩校医学所好生館に入学した後、藩校・明倫館に入学します。母、兄、父が次々となくなり15歳にして家督を継ぎ名前を「玄瑞」と改めました。
1857年、 18歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾します。
【松下村塾に関しては下をクリックして御覧下さい】
久坂玄瑞の才能を松陰は「防長第一流の人物」であると高く評価しました。その後、
玄瑞は松陰の妹・文と結婚します。(玄瑞18歳、文15歳)。
玄瑞は松陰の死後、長州藩尊攘運動の先頭に立ち活発に活動します。
1862年12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行しました。
1863年には、下関にて外国艦船砲撃を実行します。
1864年2月南御堂割腹事件を起こします。
6月には池田屋事件のことが伝わると、久坂玄瑞は京都に進撃し戦います(禁門の変または蛤御門の変)。
久坂玄瑞は、この戦いで負傷して自刃しました。享年25。
(久坂玄瑞の墓)
久坂玄瑞の墓は、京都の霊山護国神社にあります。松下村塾で競った高杉晋作のすぐ近くです。
また下関の櫻山招魂神社では、吉田松陰を中央に右が高杉晋作、左が久坂玄瑞です。
【萩市観光協会 久坂玄瑞進撃像】
<<久坂玄瑞進撃像への行き方>>
東萩駅出口から徒歩25分程度
玉江駅出口から徒歩25分程度
今にも動きそうな久坂玄瑞、力強さを感じます