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大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレ,あらすじ 44話「徳川幕府誕生」

大河ドラマ「どうする家康」44話は「徳川幕府誕生」。1603年の江戸幕府誕生の話です。
11月19日に放送された第44話の視聴率は11.0%。前回比-0.9%でした。
では、あらすじを見て行きましょう。

関ヶ原を終えて・・)
 関ヶ原の戦い石田三成に勝利した家康は、息子の秀忠とともに、豊臣秀頼がいる大阪城へ戦勝報告に向かいました。
このとき豊臣秀頼は豊臣家の当主ですが、まだ7歳。会見の場を仕切るのは、母親の茶々です。
その茶々が「逆賊・三成をようお討ちくださった。礼を申します。」と家康を労います。
さらに、わずか7歳の秀頼も「重ね重ね大儀であった。」と偉そうに言います。
茶々が「家康殿は、そなたの新たなる父と心得なさいませ。」と秀頼に言い、
それを聞いた秀頼は「はい、頂きます父上」と、盃をかわします。

家康は、政は引き続きこの家康が務めると言い、それを聞いた茶々は「誠に結構」と笑います。
茶々は、大坂城の柱に秀頼の身長を刻んでいます。秀頼の成長の記録です。
「あと10年もすれば太閤殿下にも追いつき、太閤殿下が果たせなかった夢を秀頼が果たせるだろう、それまで、代わりを・・」と茶々は言い、家康の政は秀頼が成長するまでの、つなぎだと釘を刺します。

さらに茶々は、徳川と豊臣の関係強化と、豊臣の中に徳川の人間を入れようと、
家康の孫で4歳の千姫と秀頼との婚儀を提案してきました。
茶々は「両家が手を取り合うことが何より大事でありますからな。」と言います。
しかし、会談後、茶々は本心では家康は信じてはいけないと考えています。

対面を終え、家康の息子・秀忠は「いやあ、ようございましたな、父上」と素直に喜びます。しかし、家康は「早う人質をよこせと言っておるのじゃ」と茶々の本心を知っていました。

(幕府を開こう)
これから年をとっていく家康に対し、秀吉の息子・秀頼はこれから成長していく若い力です。この状況に頭を悩ます家康に対し本多正信が、「いかがでございましょう、いっそ将軍になるというのは?」と提案します。

確かに家康は源氏の流れ、ということで征夷大将軍になり幕府をひらくことができる立場です。

それを聞いた家康は「徳川は武家の棟梁。豊臣はあくまで公家。...棲み分けられるかもしれんな。」とまんざらでもありません。

(母の死)
家康の母・於大(※家康の母)は仏門に入り、伝通院(でんづういん)と号し、家康とともに過ごしています。
家康は、薬湯を作るなどして母をいたわります。
於大は「そなたの大事なものを大切にしなされ。...ひとりぼっちにならぬようにな」と家康にアドバイスを送ります。
そのわずか後に於大は、その生涯を閉じました。

(江戸幕府誕生)
1603年2月。家康は征夷大将軍となり徳川幕府を開きました。
新しき世を築くため、家康は外国人のウィリアム・アダムスなど、若くて才能がある人たちを大いに登用していきます。

戦乱の時代が終焉し、世の中が変わってきたのです。
肖像画

本多忠勝は、肖像画を描かせていました。しかも、その肖像画は、似ているかというよりも強そうに見えるかということを重視し何度も書き直しをさせます。そのため、本人とはかけ離れた肖像画になりました。

千姫の気持ち・・)
家康は徳川と豊臣の連携強化のため、秀頼と千姫の婚姻も進めていました。しかし、千姫は、豊臣の家に行きたくないと家康に訴えてきました。
千姫の母親の江は、信長の妹の三姉妹の末っ子です。長女の茶々は秀吉の側室、次女の初は、若狭の大名・京極高次に嫁いでいます。
千姫は、母が、母の姉にあたる茶々が怖い人だと嘆いているのを毎回耳にしているため、そのようなところに行くのはイヤだと言うのです。
千姫は「おじじ様のおそばにいとうございます」と訴えます。
それを聞いた家康は「何かあれば、このじじがすぐに駆けつけよう。」と言い、この話をまとめようとします。やがて、千姫は秀頼のもとに嫁ぎます。

(秀頼12歳)
慶長八年(1603)。秀頼は12歳になります。茶々ととも大野修理は一同で秀頼様を支えていこうと大名たちに声をかけます。
(息子・秀忠)
年が明け慶長九年(1604)正月、家康は平八郎、正純らと江戸城にやってきました。
ここで秀忠をはじめ、正信、康政、そして家康の次男の結城秀康が出迎えます。
家康から「しかとやっておるか」と声をかけられた秀忠は、「お千は大丈夫でしょうか?」と言います。
それを聞いた家康は、真っ先に聞くことが娘の心配か!!と、秀忠を厳しく失跡します。
さらに家康は「関ケ原に遅れたときから何も成長しておらんな。」と付け加えます。これは本来なら全軍を率いてこなければならないのに、秀忠が従者だけで先を急いだことを、ひどく叱りつけたのです。
それを聞いた秀忠は「正信も康政もそうしてよいと…」と弁解しますが家康は「人のせいにするな! すべてお前のせいじゃ」と厳しく怒鳴ります。皆の前で怒鳴られた秀忠は大恥をかきました。
(家康の本心)
その日の夕方、小平太が「生涯最後の諫言」と家康に抗議に来ました。
小平太は「皆の面前で、あのようにお叱りになるべきではござらぬ!秀忠様の誇りを傷つけることでございますぞ!」と言い、関ケ原の合戦に間に合わなかったのは秀忠の落ち度では無い。それにもかかわらず、あの家康の叱りようはあまりに理不尽だと言います。
さらに家康も今の秀忠の年齢のころには頼りなかったか、と言います。
それを聞いた家康は「だが、わしにはお前たちがいた。」と言います。

たしかに、家康の周囲には、左衛門督、石川数正鳥居忠吉がいて、家康を、厳しく叱り続けました。
しかし、秀忠の周囲には、あのように叱ってくれるのは、家康以外にいません。今の御時世では、一刻も早い秀忠の成長が急務なのです。だから家康は秀忠の事を思い厳しくあたっていることを明かします。

(火種・・)
幕府を開いた家康ですが、大きな火種があります。それは豊臣秀吉の遺児・秀頼の存在です。秀頼がいる大坂城では、正月は酒盛りなどで大いに賑わっています。さらに関ヶ原で敗れて改易・減封となった牢人たちが九度山山中などにあふれかえっています。
家康は「関ヶ原は豊臣家中の仲違いの戦。それが鎮まり、再び1つになって秀頼様のもとに集まっておる。」
秀頼が成長し、大人になった時、秀頼を担ぎ出した者が現れると、大きな争いがおきるのではないか。と危惧していました。
そして家康は「平八郎、隠居など認めぬぞ。小平太もまだ老いるな。まだ、お前たちの力がいる」と言い2人の肩を叩きます。

(秀忠に託す)
家康は、太平の世を治めていけるのは、秀忠のような人間だと考えていました。
4年も前に起きた関ヶ原の戦いでの出来事について、家康は再び秀忠をせめます。上に立つ者の役目は、結果において己がすべての責めを負うことだと諭します。そして家康は秀忠に1年のうちに征夷大将軍の職を譲る旨を伝えました。

(偉大なる凡庸)
次期征夷大将軍に選ばれた秀忠は、自分が選ばれたのは兄の結城秀康が正当な妻の子供でないからか?と考えます。しかし、正信と康政は、それを否定します。
正信は、結城秀康を選ばなかったのは、才あるため。才ある将が一代で築く世は長続きしない。その点、秀忠は「すべてが人並み」、いうなれば「偉大なる凡庸」だと言います。
一方、康正は、秀忠が於愛の子らしく大らかで、豊臣家ともうまくやっていけるだろうという事からだと言います。また、関ヶ原の戦いでも遅れてきたため豊臣方は秀忠には恨みをかっていないと言います。
それを聞いた秀忠は、間に合わなくてよかったのかもしれないと笑います。

(徳川秀忠・二代将軍就任)
慶長十年(1605)年四月十六日、伏見城にて徳川秀忠は第二代将軍に就任した。これには豊臣方がカンカンです。秀忠が征夷大将軍を引き継ぐことで、天下は豊臣ではなく、徳川家が受け継いでいくということが公にされたも同然だからです。
大坂城大野修理/治長は、秀忠の将軍就任は徳川の約定破りだと怒ります。

茶々も「図々しくも、秀頼にも挨拶に参れと言ってきおった。無論断ったわ、秀頼を行かせるくらいなら、秀頼を殺して私も死ぬとな」と激怒します。
(老臣)
家康の家臣・忠勝は相変わらず肖像画を描き直させている。その絵に描かれたものは、すでに別人であり、絵師も本人を見ないで描いています。
よろよろと立ち去ろうとする康政に「どこが悪い」と忠勝が聞くと「はらわた」だと答えます。一方の忠勝も、目が見えなくなってきていました。
もう役目は終えたのだ、と帰ろうとする康政を呼び止める忠勝は、二人でやりあいます。しかし、動きはおそいです。
忠勝と康政は、やり合った後に家康のことを主君と認めたのは、2人とも、桶狭間の後の大樹寺のときで同じだったことを語ります。
「わしは、寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた武神じゃ。そなたたちのことはわしが守るんじゃー」と家康が、殿たる覚悟を決めたときでした。
康政が「まだ見ていたいのう、あの背中を」と言うと忠勝も「睨みをきかせてな」と答えます。
忠勝が強そうな肖像画を描かせていたのは、自分が死んだ後も睨みをきかせておきたかったからでした。
こうして家康の重要な家臣であった2人は、慶長十一年(1606)年に榊原康政が、慶長十五年(1610)に本多忠勝が死去しました。
(19歳になった秀頼)

慶長十六年(1611)。秀頼は19歳になりました。茶々は「どこからどう見ても見事な天下人であることよ」と喜びます。

なお、大河ドラマでは触れられていませんが、この時、すでに長男の国松は3歳(1608年生まれ)です。
さてさて、成長した秀頼と老いていく家康、、、豊臣と徳川の第二ラウンドがまもなく始まります。