維新の偉人たちをたくさん輩出した
松下村塾の指導者・吉田松陰。
その松陰の生誕地が山口県萩市にあります。
(萩を一望できる高台にある生誕地)
萩市内を一望できる団子岩とよばれる高台、ここに松陰が生まれる5年前の1825年に
松陰の父・百合之助が、居をかまえました。
現在は、当時の間取りを示す敷石が復元されていて、3畳の玄関と6畳2間、3畳2間と台所、それと別棟の納屋と厩という簡素なものだったことが分かります。
そして1830年、吉田松陰は、家禄26石の萩藩士・杉百合之助の次男としてここで誕生しました。今も産湯の井戸が残っていました。
松陰はこの場所に19歳頃まで過ごしました。
松陰は、山鹿流兵学師範となるべく、叔父である玉木文之進の厳しい指導を受けました。そして10歳のときには藩校明倫館の兵学師範として教壇に上がり、11歳のときには藩主・ 毛利敬親の御前で兵学講義をしました。さらに19歳で兵学師範として独立し、藩校明倫館で本格的に教授を行いました。
この場所は、松陰が家族で松本村清水口へ転居する19歳まで過ごした場所で、両親や兄弟とともに農耕に従事し、父から漢籍の素読などを受けた場所です。
吉田松陰誕生之地に建つ石碑の揮毫は、松下村塾の門下生・山県有朋によるものです。
(吉田松陰と金子重輔2人が並ぶ銅像)
松陰誕生地のすぐ近くには、海外密航を企てた吉田松陰と金子重輔2人が並ぶ銅像があります。この像は明治維新100年を記念して1968年(昭和43年)に建立されました。
1854年、吉田松陰と金子重輔2人が、この目で海外を見ようと決意し、下田に来航したアメリカの軍艦に乗り込み、米国へ密航させてほしいと交渉します。しかし交渉が失敗となり、2人は自首し、江戸その後、萩の野山獄に投じられました。なお金子は投獄された後。病気で獄死します。
(松下村塾で維新の英雄を複数教育)
1855年、松陰は獄を出て、実家である杉家に幽閉の身となり、松下村塾を主宰することになります。ここで維新の原動力となる数々の人材を育てます。
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しかし、松陰はその過激な思想がエスカレートし、安政の大獄で捕まり、1859年に29歳で処刑されます。
この生誕地のすぐ近くには、松陰の墓もあります。
<<吉田松陰の生家への行き方>>
萩循環まぁーるバス(東回り)「松陰誕生地前」バス停より徒歩すぐ
住所:萩市大字椿東1433-1
萩の高台にある吉田松陰誕生地、
明治維新そして近代日本は
ここで産声をあげました。