日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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戦争体験・証言聞き取り)国内最大規模の列車銃撃事件、西鉄筑紫駅列車銃撃事件体験者の話を伺いました(2023年:令和5年12月2日91歳:当時13才の証言)

 

出典:National Archives at College Park

終戦のわずか1週間前の1945年(昭和20年)8月8日、
福岡県筑紫野市にある西鉄大牟田筑紫駅付近で、
2本の列車が米軍戦闘機の機銃掃射を受け、
64人が犠牲となりました。
この最大級の犠牲者を出した
西鉄筑紫駅列車銃撃事件です。

この体験者(1932年・昭和7年2月生まれ:
聞き取りをしたとき91歳)に
お話を聞くことができました。
西鉄筑紫駅銃撃事件とは)                  

今回お聞きした西鉄筑紫駅銃撃事件は終戦の1週間前の8月8日正午頃、一般市民が乗っていた複数の列車を米軍の戦闘機が銃撃し、多くの方が命を落とした事件です。
事件当日、2編成の上下2本の西鉄列車が西鉄筑紫駅を行き交います。この列車が米軍機に襲われました。
(地図は、筑紫平和祈念館の案内図より)

下の写真は、被災車となった西鉄200形です。

この2機の電車を、米軍に占領された沖縄の伊江島を出発した米国陸軍第340戦闘機中隊のP-51ムスタング12機が攻撃します。
12機は福岡県の旧国鉄荒木駅久留米駅の隣の駅)を攻撃したあとに、筑紫駅周辺にむかったのです。

(下り列車を襲撃)
午前9時52分、下り列車が福岡駅(今の天神駅)を乗客約200人というほぼ満員状態(ただし乗客の多くが軍人)で出発します。
この下り電車を運転していたのは学徒動員された旧制南築中学の男子学生でした。
途中、空襲警報が出たために、何度も最寄り駅に停車し避難を繰り返します。
正午頃、ようやく筑紫駅に入ろうとしたとき、米軍の戦闘機が機銃掃射を行います。
弾は列車の鉄板を突き抜け乗客に降りかかります。車内は銃撃で亡くなった方や負傷した方の臭いが充満し、飛び散った血や肉片があったそうです。

米国国立公文書には、戦闘機のガンカメラで撮影されたこの空襲のフィルムが保存されていました。
ホームに下り電車が停車中であること、駅の周囲が田んぼであることがわかります。

出典:National Archives at College Park

 

機銃掃射の攻撃を受けた列内の側面には100発余の弾の痕が残り、車内では撃たれた人の遺体がころがり、また血が流れます。

出典:National Archives at College Park

【出典:筑紫平和祈念館の案内板】

(上り列車も襲撃)
 一方、上り列車は午前9時ごろに20名程度の乗客を乗せて久留米駅を出発。
筑紫駅に近づく手前で機銃掃射を受けます、
列車は緊急停車をしますが、戦闘機はさらに低空飛行で銃撃を加えます。そして8人が即死、数人が負傷したとしています。
米国国立公文書に保管されている、戦闘機のガンカメラで撮影されたこの空襲のフィルムには、機銃掃射を受ける上り列車の映像があります。

出典:National Archives at College Park

【出典:筑紫平和祈念館の案内板】

西鉄の資料では、この銃撃で64人が即死、負傷者は100人以上としています。
100名以上が死亡したという目撃者の証言もあります。
(この空襲の体験者の証言を伺う)
この空襲から78年後の2023年(令和5年)12月2日(土)、この空襲の体験者に話を聞くことができました。
福岡県太宰府在住の女性で1932年(昭和7年)2月25日生まれ、話を伺った2023年(令和5年)当時91歳。御健在で普通に歩き頭脳明晰な方です。なお私人なので詳しい住所や名前の公表はいたしません。

(銃撃事件体験)
この方は、当時、筑紫国民学校6年生女子組。学校は、夏休み期間中でしたが、この日は学校がありました。しかし、警戒警報のサイレンが鳴り響いたため午前中に帰宅し、自宅の中で兄弟と過ごしていました。

その方の自宅は、筑紫駅徒歩3分の場所で、水車屋の道路を挟んだ対面にありました。

正午ごろ、空襲警報のサイレンが鳴りました。警戒警報は何度かありましたが、空襲警報が鳴ったのは初めてでした。
空襲警報を聞いて、この女性はすぐに、布団を取り出し幼い弟妹と母親にかぶぜ、自分は押し入れに隠れます。

まもなく戦闘機の爆音が近づき、パラパラと鉄を激しく叩いたような音を耳にします。これは機銃掃射の弾が列車に当たった音です。時間と場所的に、ちょうど下り電車が筑紫駅到着直後に銃撃を受けた時です。

その後も機銃掃射の音は何度か繰り返されます。女性によると5分以上だったとのことです。やがて静かになった時に、正面の水車小屋に作られた防空壕に駆け込みました。

しばらくすると、攻撃がやんだので、外に出ます。すると、防空壕がある敷地にトラックが次々とやってきて、その荷台からたくさんの遺体が下ろされ、並べられました。
遺体は男女で数十体ありました。
遺体は、遺族が引き取りにくるまで置かれました。夏だったので腐敗した臭いが周囲に漂ったそうです。

この空襲で、列車に乗っていた先輩が右足切断となりました。また下校中の学友も米軍機の機銃掃射を受けましたが、命からがら田んぼの稲穂に隠れ、助かったそうです。

さらに、この女性のすぐ近くに住んでいた同級生は、米軍機の銃撃から逃げて自宅に駆け込みます。そして米軍機が去った後、げた箱に機銃掃射の銃弾が突きささっていたことに気がついたそうです。

ここで、忘れてはいけない重要な事を書きます。
一般市民、民間人など、非戦闘員への攻撃は、
日本も米国も批准しているハーグ陸戦条約に違反する、
国際法違反行為です!!

(空襲を物語る駅の待合室)

1945年(昭和20年)8月8日に起きた西鉄筑紫駅列車銃撃事件・・・。その空襲で銃撃を受けた筑紫駅のプラットホーム上にあった待合室が 今も残っています。
場所は筑紫コミュニティセンター横に建てられた筑紫平和記念館で、残念ながらガラス越しでしか見ることができませんでした。

ガラス越しに見てみました。右上の屋根部分をご覧ください。

拡大しますね。ここが、機銃掃射で空いた穴です。

<<筑紫平和祈念館への行き方>>
西鉄筑紫駅から徒歩2分
住所:福岡県筑紫野市大字筑紫634-7


一般人である列車の乗客を狙った
米軍による国際法違反の機銃掃射・・・
犠牲になった方々の御冥福をお祈りします