日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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戦争体験・証言聞き取り)出撃を翌日に控えた特攻隊員に乙女が捧げた合唱曲「花」(宮崎県都城市)

特攻出撃前夜に女学生が特攻隊員に合唱を披露しました。
今回はその話しを紹介します。

(宮崎県都城)
終戦から半世紀が経とうとした1990年代初めに、宮崎県都城市で戦争中に女学校で音楽の教師をされていた方にお話を伺いました。(私人なので名前は非公表にさせていただきます)

宮崎県都城市。九州の中央部にある畜産が有名な町です。
ここには1944年(昭和19年)に造られた都城東飛行場および都城西飛行場がありました。
この両飛行場は、陸軍の特攻基地で、記録によると太平洋戦争中には、合わせて79人の特攻隊員が飛び立っています。
下の写真は1945年(昭和20年)5月25日に撮影された都城東飛行場です。
第58振武隊(髑髏隊)の四式戦闘機・疾風が並んでいます。


都城の基地の近くには、軍が借り上げた旅館の宿舎がありました。
特攻隊員は付近住民から「兵隊さん」と親しみを込めて呼ばれ、女子青年団等の有志たちが特攻宿舎で隊員達の世話を行っていました。
また特攻隊員達も女子青年団員達と打ち解けていました。

(出撃の前夜)
話を伺った方は当時、30代の女性で女学校の音楽教師をしていました。
終戦の年、1945年(昭和20年)の春頃の事です。その頃は、学校の授業も少なく、女学生達は、昼間は工場で勤労奉仕を行っていました。
ある夕方、幹部らしい兵隊さんが学校を訪れます。その方は、兵士達の前で合唱をして欲しいとお願いに来たのです。
それを聞いた先生は、校長先生の許可をもらい、工場から戻ってきた女学生達を、そのまま音楽室に残します。
陽がくれそうになった時刻に、音楽室で勤労奉仕を終えた十数名の女学生が、集まった兵隊さんたち数名の前で「海征かば」などの軍歌を歌いました。
さらに先生は軍歌だけでなく他の曲も聴かせたいと思い、綺麗な合唱である滝廉太郎の「花」も披露しました。

合唱に耳を傾ける兵隊さんたちは20才前後で、歌っている女学生とは5才くらいしか年が離れていないようでした。

急ごしらえの合唱会が終了し、兵隊さん達は、丁寧に御礼を述べ、満足した表情で宿舎に帰っていきました。

その翌日、正確に言うと10数時間後に彼らは出撃していきました。

(手紙)
その数週間後、先生のもとに1通の手紙が届きました。
その手紙の送り主は、あの日、女学生の合唱を聴いた兵士の1人でした。
手紙には、特攻隊として出撃する前日に素晴らしい歌を聴かせてくれた事への感謝の言葉が綴られていました。
その後、出撃した特攻隊隊員から同じような手紙が何通か届いたそうです。
いずれも、軍歌への感謝と、滝廉太郎の「花」の見事な合唱曲に感動したという内容でした。

その半世紀後、1990年代初めに、先生が私にこの話をしたあとに「命を失う寸前に、綺麗な合唱を聴かせてあげたかった。うら若い乙女が作り出す合唱を聴いた彼らは、どんな気持ちだったのでしょうかね」とつぶやきました。

その後、先生は都城で、市民合唱団を作ります。
現在、先生はお亡くなりになりましたが、その指導や精神は今も受け継がれ、その歌声が多くの人を魅了しています。