上の写真、兵隊さんが抱っこしているのはヒョウです。
戦争中、中国大陸にいた日本軍のなかに
ヒョウを帯同していた部隊がありました。
(赤ちゃんのヒョウを発見)
そもそもなぜ、日本軍の部隊がヒョウを飼育していたかというと、話は日中戦争中の1941年(昭和16年)にさかのぼります。
2月28日、中国の湖北省陽新県に、高知出身の隊員を中心とした「鯨部隊」(歩兵第236連隊)が駐屯していました。
その部隊の小隊長の成岡正久第三氏(当時41歳)のもとに、現地の中国人から、近くの山にヒョウがいて家畜や住民を襲撃するので退治してほしいと要請が来ます。
それをうけ成岡小隊長が部下3名を連れて山に入り、ヒョウがいる洞窟に、燃える木々を投げ入れ、焼き討ちをします。しかし、大きなヒョウの姿はなく、代わりに生まれたばかりの2頭の赤ちゃんヒョウを発見します。
成岡さんは、洞穴から、この2頭を部隊に連れて帰り、1匹は鉱山で働く日本人技師に預け、首筋にやけどのあとが残るもう1匹を鯨部隊で飼うことにしました。
(第八中隊のヒョウだから“ハチ”)
鯨部隊「第二大隊」第八中隊に連れてこられた赤ちゃんヒョウは雄で、第八中隊の「八」から、“ハチ”と呼ばれ、鯨部隊で飼育されることになります。
飼育係に任命された一等兵の橋田さんは軍服のいちばん上のボタンを外し、ハチの顔を出すようにして服の中に入れて育てます。橋田さんは自分の御飯を噛んで軟らかくして、口移しでハチに食べさせたそうです。
また成岡小隊長は任務を終えると、夜は宿舎でハチと一緒に寝ていました。
殺伐とした戦場に勤務し、いつ帰国できるかわからない男所帯の兵士達にとってハチと遊ぶことは気分転換や心の癒しとなりました。同時にハチも部隊の中で愛情を注がれ
育っていきます。
(ハチと兵隊)
鯨部隊「第二大隊」第八中隊に連れてこられた赤ちゃんのヒョウ・ハチは、次第に部隊のマスコット的存在となっていきます。
ハチは、兵士たちの夜間歩哨勤務に同行したり、また炊事場で盗み食いをするネコや
野良犬を退治してくれました。
さらにハチは野外演習や夏の水泳演習にも同行します。
「ヒョウを飼っている部隊がいる」と言う話は評判となり、他の分屯隊から事務連絡などでやってくる兵士たちは、ハチのために大きな鹿や野鳥を射止めて運んできました。
ハチは、その恩を忘れず、兵士たちが帰隊するときには、東門まで見送りに出たそうです。
こうして部隊とともに暮らすハチは、連隊長からも「この猛獣は危険ではない」と言うお墨付きをもらい鯨部隊への帯同も認められました。
ハチは、成岡さんや部下の兵士たちを家族同様に慕い、兵舎を住みかとして、毎日を過ごしていました。
また成岡さんが外出するときには、静かに後ろをついて歩くことが何度もあったそうです。
(上野動物園へ)
日本軍と共に生活をしていくハチですが、別れの時が来ました。
太平洋戦争が始まり戦火が拡大した1942年(昭和17年)、鯨部隊が中国本土にある米軍の航空基地を撲滅する作戦に参加することになったため、これ以上ハチを同行できなくなりました。
そして1年ちょっとの軍隊生活を終え、ハチは1942年(昭和17年)5月に東京の上野動物園に送られます。
上野動物園に送られたハチは 6月1日に初お披露目。「兵隊さんが育てたヒョウ」として上野動物園の人気者となります。
下の写真は1942年か1943年(昭和17年か18年)に撮影された上野公園内のハチです。
(悲しい最後)
1943年(昭和18年)8月16日、戦況の悪化による食糧難と、空爆で動物園から動物が逃げ出したら危険なことから、上野動物園に猛獣処分の命令が下されます。
それを受け、18日、わずか3gで体重300kgのヒグマを絶命させる猛毒の硝酸ストリキニーネを混ぜた餌を口に入れ、ハチは死亡します。
こうしてハチは2年6か月の生涯を閉じました。
死後、ハチは剥製にされ上野動物園に保存されました。
(再会)
ハチが死亡した1週間後の8月26日、成岡小隊長は、2か月の特別休暇を与えられ、高知に帰ってきていました。そして電報でハチの死を知りショックを受けます。
終戦を迎え地元高知に戻ってきた成岡さんは、ハチを何とか自分のそばに置きたいと思い、上野動物園にハチの剥製の引きとりを申し出ます。
そして1949年(昭和24年) ハチの剥製が成岡さんに寄贈され、また一緒に暮らすようになります。
成岡さんは、1994年(平成6年)6月1日に84才で亡くなりますが、ハチの剥製は、
今は、高知みらい科学館に展示されています。
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中国大陸で日本軍には、
兵隊さん達に育てられたヒョウのハチがいました。