日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

MENU

沖縄戦で使用されたままの形で残る 旧海軍司令部壕 ~自決した手りゅう弾の跡が今も残っています!!~

沖縄戦で使用された旧海軍司令部壕。
ここには、自決したときの手りゅう弾のあとなど、
当時の様子が残っています。
その旧海軍壕に入ってきました。

沖縄戦の半年ほど前に完成)

旧海軍司令部壕は、沖縄戦日本海軍の司令部で、豊見城市那覇市の堺にありました。沖縄戦が始まる半年ほど前の1944年(昭和19年)12月に完成しました。
米軍の沖縄本島上陸は、旧海軍司令部壕が完成した翌年の1945年(昭和20年)4月1日です。
同年6月4日に米軍第六海兵師団が小禄半島に上陸。
周辺では日米両軍の激しい戦闘が続き、12日午後に、米軍が司令部壕の頂上にある74高地を占領します。
日本軍は敵軍からの攻撃に耐えならがここで持久戦を続けます。

(旧海軍司令部壕)
旧海軍司令部壕の入場料は、大人600円です。

では、壕の中に入ってみます。
急こう配の105段の階段です。ここを20mほど下に降りると、通路が縦横に張りめぐらされた壕内に到着します。

旧海軍壕に入った第一印象は、こんなものをよく掘ったなあという感じです。

司令部壕内は、そのほとんどが手作業でつくられていて、今もクワやツルハシで削った後が残っています。

(手作業で作った旧海軍司令部)
旧海軍司令部壕は、全長約450m。手作業で、かまぼこ状にくりぬいた横穴をコンクリートと漆喰で固めています。
約4,000名の兵士が壮絶な最後を遂げた壕内は、司令官室、作戦室、暗号室、医務室などが当時のまま残されて、見ることができます。

こちらは無線室

こちらは医療室。たくさんの負傷兵がここにいたそうです。

こちらは出撃の出口。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲します。このとき壕内に重火器はほとんど残ってなく、槍での突撃が精一杯でした。

壕の隣にある資料館には、実際に使用した手製のヤリがありました。
米軍の大砲や機関銃などの砲撃をうける中、日本軍は、このような武器で突撃したのです。

(自決した手りゅう弾の跡が今も残る!)
強烈だったのは幕僚室です。
6月13日午前1時、沖縄方面根拠地隊司令部太田實少将以下の幕僚6名は、10m2 の広さのこの部屋で自決します。それにより海軍の組織的戦闘が終了します。
なお太田實少将は、自決する直前の6月6日午後8時16分に、沖縄県民の敢闘をたたえる電報を送っています。

壕内には、その自決のときの手りゅう弾がさく裂した跡が今も残っています!

海軍部隊1万人、そのうち4000人が司令部壕やその周辺で死亡しています。
(海軍壕公園)
旧海軍司令部壕の近くには海軍壕公園があります。

ここには、自決する直前の1945年(昭和20年)6月6日午後8時16分に沖縄方面根拠地隊司令部太田實少将が発信した電報の全文が碑に記されています。沖縄県民がいかに戦ったかを、詳細に記述しています。


【旧海軍司令部壕公式HP】👇
営業時間などはここで確認してください。

ゆいレール奥武山公園駅 徒歩約20分

住所:沖縄県豊見城市豊見城236

ここで、実際に戦争がありました。
自決した手りゅう弾の跡も残っていました。

旧海軍司令部は、是非訪れてほしいところです。