日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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今も遺骨が残る・・沖縄戦で集団自決で80名以上が命を落とした読谷村のチビチリガマ

沖縄県読谷村にあるチビチリガマ
ここでは沖縄戦で、80名以上が自決をするという
大惨事が起きました。
そして、ここには今もなお遺骨
が残っている事から
遺族会によって立ち入りが禁止されています。

チビチリガマ一帯は神秘的な雰囲気)
沖縄県読谷村にあるチビチリガマ。入り口から、階段を降りると、大きなガジュマルがそびえる広い空間があります。その先にチビチリガマがあります。ガマ一帯は、薄暗く静かな雰囲気です。

ガマの奥行きは50メートルほどです。

チビチリガマ、その名前の由来)
読谷村観光協会によると、チビチリガマのチビは、沖縄の言葉で「尻」、チリは「切る」の意味があります。そして「チビチリガマ」は、浅い谷の底にあり、谷川を流れる細い川はガマへ流れるが、どこへ流れ着くのか分からないという事からこの名が付いたそうです。

(米軍の上陸にあわせ避難)
1945年(昭和20年)4月1日、米軍が沖縄島西海岸に上陸すると、沖縄住民はガマと呼ばれる自然にできた壕などに避難し身を隠しました。
この周辺の読谷村波平区の住民の多くは、村内にあるチビチリガマとシムクガマに分かれて避難しました。
(投降を拒否し自決が相次ぐ)
アメリカ軍の沖縄本島上陸の翌日1945年(昭和20年)4月2日、アメリカ兵は、チビチリガマに向かって投降を呼びかけます。しかし、避難した人々はこれを拒否します。
そして敵の手にかかるくらいならと、肉親同士が殺しあったり、自ら命をたつなどの集団自決が行なわれます。
読谷村観光協会によれば、この洞窟への避難者約140人のうち83人が自決などで命を絶ったということです。しかも、そのほとんどは18歳以下の子供であったそうです。

沖縄戦から半世紀以上たった今も遺骨が残る・・)
チビチリガマの入り口周辺には、色鮮やかな千羽鶴がたくさん供えられています。
入口の空間は、140人の住民でひしめき合っていたといいます。ここには、今もさび付いた包丁や鎌の刃などがそのまま残されています。

またチビチリガマは、犠牲者の墓でもあり、今も遺骨が残っていることから、遺族会の意志により禁止されています。

チビチリガマ世代を結ぶ平和の像)
ガマの隣には、「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」があります。読谷村在住の彫刻家・金城実の作品です。

<<読谷観光協会HPでのチビチリガマ記事>>

<<チビチリガマへの行き方>>
レンタカーで行きましょう。
住所:読谷村字波平1153

 

集団自決が行われたチビチリガマ
80名以上がここで命を失い、今も遺骨が眠っています。
亡くなられた方の御冥福をお祈りします。