【出典:銅像物語 国史絵話(時代社 昭和16年出版)33ページ:デジタル国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1717272/1/33 】
2月22日、
昭和最初の軍神・肉弾三勇士(爆弾三勇士)が
誕生しました。
(肉弾三勇士とは)
肉弾三勇士、別名、爆弾三勇士・・。
1932年(昭和7年)に中国・上海で上海事変が起きます。
上海での戦闘では、中国軍が作った鉄条網に阻まれ日本軍は先に進めません。
そこで福岡県久留米市にあった陸軍独立工兵第18大隊の3人(江下武二、北川丞、作江伊之助、いずれも一等兵)が、一緒に長さ3メートルの爆弾筒を抱えたままで、中国軍が作った鉄条網に突っ込みました。
【出典:満洲・上海事変大写真帖(創造社 昭和7年発行)76ページ:デジタル国会図書館https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1112048/1/76】
その爆破で鉄条網が破壊され、日本軍の進軍の突破口となり進撃しました。
しかし3人は爆死します。
当時紹介された2月22日の地図です。
【出典:肉弾三勇士(東洋書院 昭和7年出版)4ページ:デジタル国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1028981/1/4】
下の写真は三勇士が命を落とした現地です。
【出典:爆弾三勇士 満洲上海事変美談集(金蘭社 昭和7年発行)5ページ:デジタル国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/pid/1717180/1/5 】
爆死地点には記念碑が建てられました。
(出典:忠烈爆弾三勇士(実業之日本社 昭和7年発行)デジタル国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1191094/1/8)
(昭和最初の軍神に)
爆弾を抱え突っ込んで死亡した3人は、この戦死で2階級特進し、「肉弾三勇士」、「爆弾三勇士」と賞賛され、昭和最初の軍神となりました。
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(日本中で大ブームに)
軍部は、肉弾三勇士の行為を称賛し、それを新聞各社が取り上げます。
下は三勇士の地元福岡の福岡日日新聞の「特別号外」です。単なる「号外」ではなく「特別号外」と記したところに熱の入れようが感じられます。
三勇士が自分の命を捧げたその犠牲的精神と行動に対し、日本中が沸き、彼らを扱った映画、音楽、浪曲、部隊、書籍が次々とさらに複数登場します。
(錦絵:爆弾三勇士)
1932年(昭和7年)に発売された「錦絵爆弾三勇士」。
よく見ると3人別々に1人1人が爆薬を抱えて突っ込んだ姿で描かれています。
(出典:錦絵爆弾三勇士(村井和本店 昭和7年発行):デジタル国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12969171/1/1)
(おもちゃも)
子供の玩具や菓子の中にも、三勇士に関するシールなどが登場し、さらに爆弾キャラメル、爆弾チョコレートなども登場。
当時少年に大人気だった雑誌の「少年倶楽部」には、三勇士の銅像の模型が付録になっています。
さらに、この出来事は小学校の教科書や音楽の本にも載るなど日本の国を挙げての大ブームとなりました。
三勇士の母達も「軍神の母」としてたたえられ逸話が伝えられました。
(出典:忠烈爆弾三勇士(実業之日本社 昭和7年発行)デジタル国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1191094/1/10)
銅像建立の動きも高まり10万人の小学生を含む多くの募金が集まりました。
そして三勇士の銅像が、3名が所属した部隊があった久留米市や帝都・東京などに建立されました。
(東京にある肉弾三勇士の像)
上海事変から2年後の1934年(昭和9年)、東京都港区愛宕二丁目にある青松寺に肉弾三勇士の銅像が建てられました。
銅像は、先頭が北川丞、真ん中が作江伊之助、最後の江下武二の順番になっていて、
その中には、三勇士の遺骨が納められました。
小学校の生徒や一般人などが連日多く参拝したそうです。
【出典:銅像物語 国史絵話(時代社 昭和16年出版)35ページ:デジタル国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1717272/1/35】
(今もひっそりと残る三銃士の像の一部)
当時造られた像の一部が現在もお寺にひっそりと残っています。
肉弾三勇士の現在の姿は以下のようになっています。
戦後、この三勇士の像は、軍国主義のシンボルとみなされることを危惧した
関係者から撤去されて現在は、石碑と、最後の江下武二の像が残っています。
おっさんは、この像を見に行きましたが、お寺の片隅にぽつんと残っていて、
「当時あれだけ日本中を沸かせたというのに、この扱いは非常に淋しいなあ」と感じました。
(久留米にある爆弾三勇士碑)
一方、彼らが所属した部隊がある福岡県久留米市も肉弾三勇士で盛りあがりました。
市の中心部にある久留米中央公会堂(旧市民会館)には等身大の銅像が作られました。
銅像は撤去されましたが、現在、久留米の山川招魂社には「爆弾三勇士碑」があります。
(肉弾三勇士とともに上海に従軍した元日本兵のお話)
1990年(平成2年)の3月に、元日本兵の方々と上海・南京に行く機会がありました。
その方は、肉弾三勇士と同じ部隊にいたそうで、その方の話によると「この3人は愛嬌がある、明るい人たちだった。」そうです。
彼らが被差別部落出身者だったという噂もあったので、それに関しても尋ねましたが「それは聞いたことがない」とのことでした。
この戦いで、中国軍の鉄条網を破壊するために爆薬筒を抱えて突っ込んだのは三勇士の他にも何グループかいたこと、そのグループのほとんどが爆薬筒を置いたのちに、
すぐに生還できたこと、この三人だけが戦死したこと、という話も聞きました。
彼らが戦死したあとは、その場所に記念碑を建て全員で黙祷したそうです。
また「戦死したことは聞いたが、あんなに大ブームになるとは思わなかった、まして軍神になるなんて想像もつかなかった」と話していました。
もう、この方はお亡くなりになっていると思いますが、貴重なお話を伺うことができました。
<<肉弾三勇士の像が残っている青松寺への行き方>>
住所:東京都港区愛宕2丁目4番7号
・・・ということで2月22日は、
昭和最初の軍神・肉弾三勇士が突入した日です。