2月10日は、鎌倉時代の1242年に、第87代天皇の四条天皇が崩御した日です。
(いたずらが原因で崩御)
この四条天皇は、いたずら好きで、宮中に出入りする女性を転ばせてやろうと考え
御所の廊下に滑り石を撒きます。
このとき12才。いまでいう小学6年生の男の子ですから、そのいたずら好きというのも理解できます。
しかし、自分がその滑石で転倒したことが原因で命を落とします。
(皇位空白期間を産む)
この四条天皇の崩御は皇位継承の点で大きな問題を巻き起こし、「11日間天皇不在」という空位期間を生み出します。
それはなぜか・・・。
ここで鎌倉時台の歴史を見ると1221年、後鳥羽上皇が幕府転覆を狙い承久の乱を
起こしますが失敗し、隠岐に流されます。
さらに鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の息子の順徳上皇は佐渡へ流罪にします。
同じく後鳥羽上皇の息子の土御門上皇は自ら四国高知への流罪を申し出ます。
そして当時の仲恭天皇(後鳥羽上皇の孫)は、わずか70日で廃帝とされます。
こうして後鳥羽上皇の血縁者は途絶えます。
話がややこしくなるので家系図で説明します。
鎌倉幕府側は、幕府にたてついた後鳥羽上皇の子孫を皇位につけたくありません。
といっても後鳥羽上皇の異母兄の安徳帝も幼くて死亡しています。
そこで後鳥羽上皇の弟の守貞親王の息子を第86代の後堀河天皇として即位させます。
以後は、「後堀河天皇のあとは、息子の四条天皇へ皇位継承」という具合に後鳥羽上皇の血統以外に皇位を継承させていきます。
四条天皇の父親の後堀河天皇は、四条天皇の他に皇子をもうけることなく23才で
崩御します。
残された四条天皇ですが、わずか12才で崩御したため、跡取りがいません。
つまりこの系列の血筋が途絶えてしまいました。
四条天皇の崩御により、鎌倉幕府は新たな天皇を選ばざるを得なくなりましたが、
ここで誰を選ぶかで、朝廷側と幕府側でそれぞれ推薦者が異なり、天皇不在期間が
生じます。
結局、鎌倉幕府の北条泰時は、後鳥羽上皇の息子の土御門天皇の皇子を即位させます。
これが後嵯峨天皇です。
この方は後鳥羽上皇の孫にあたりますが、父:後鳥羽上皇や弟の順徳天皇と違い、
承久の乱には積極的ではなかったようです。
そこで 鎌倉幕府は、皇位存続のため、後鳥羽上皇の流れをくむ人のなかでも、
幕府とは激しく対立してはいなかった土御門天皇の息子を選んだわけです。
天皇が空位になった期間は770年の称徳天皇から光仁天皇になるまでの55日間で、
以来472年振りでした。
・・・というわけで、2月10日は、12才の四条天皇が転倒して命を失った日です。
【暗殺されたことが公式に書かれている
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