日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

MENU

6月9日 北野天満宮創建  ~菅原道真からのお告げで、道真のたたりを鎮めるために出来た神社~

947年6月9日、京都北野にあった朝日寺の
最鎮
(最珍)らが朝廷の命により
道真を祀る社殿を造営します。
これが北野天満宮のはじまりです。

(ねたみで太宰府に左遷され無念の死)
北野天満宮に祀られている菅原道真は、幼少期より優れた才能の持ち主で899年には、学者出身として異例の右大臣に任命されます。こうして左大臣藤原時平とともに政務を行います。

しかし、どこにも足を引っ張る人がいて、道真の躍進を良く思わない藤原氏の策謀で901年に九州・太宰府に左遷されます。

そして、その2年後、大宰府にて悔しい思いを抱いたまま死去します。

(道真の死後、相継ぐ関係者の死)
道真が太宰府で失意のうちに死亡て以降、関係者の怪死が頻発します。

菅原道真の死から5年後の908年、道真の失脚に荷担した藤原菅根が落雷で死亡します。
その翌年、藤原時平が急死します。
ちょうどこの頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病など変異が毎年のように続きます。
この状況に人々は「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂します。923年には、藤原時平の妹・穏子が産んだ子で、醍醐天皇の皇太子だった保明親王が21歳の若さで逝去します。
菅原道真をハメた人に次々と関係者に降りかかる不幸。
醍醐天皇は道真の大宰府左遷を命じた勅書を破棄し、その地位を右大臣に戻したうえ
正二位を追贈します。
しかし、その後も関係者への不幸は続きます。
急死した保明親王に代わり、新たに皇太子となった保明の子・慶頼王(母親の仁善子は時平の長女)も、2年後に5歳で夭折します。

930年には、御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が死亡。
その後、醍醐天皇は体調を崩し、皇位を皇太子の寛明親王(保明の弟)に譲ったあと、その年のうちに崩御します。

こうして長年にわたり、菅原道真の左遷に関係した人々への不幸が何度もおき、人々は「菅原道真のたたりだあ」と思いこみます。
まあ、こう道真をハメた関係者に不幸が相継いだら、そう思いますよね。

(神託)
942年、道真公の乳母(うば)をつとめていた多治比文子(たじひのあやこ)のもとに、道真の霊が訪れます。
そして、治比文子に、北野の右近の馬場(現在の北野天満宮の地)にまつってもらいたいと託宣します。
それを聞いた文子は自分の家の庭に小さな祠をもうけ、道真を祀ります。
さらに5年後にも近江国の太郎丸に同様の託宣があります。
それがきっかけで、947年6月9日に北野天満宮が創建されました。

その後、藤原氏による大規模な御社殿の造営があります。やがて菅原道真は、一條天皇から「北野天満大自在天神」の御神号を送られます。
こうして北野天満宮は、学問の家柄である菅原一族が管理することになり、朝廷もこの神社を保護して勅祭の社にします。

(本殿は豊臣秀頼が造営)

北野天満宮尾本殿は1607年に豊臣秀頼が造営したもので、国宝に指定されています。
八棟造(権現造)と呼ばれる特徴的な構造や壮大な拝殿があり、江戸時代に流行した建築様式「権現造」の原型となったそうです。 

現在、北野天満宮は学問の神様・菅原道真が祀られていることから、全国から受験生が参拝に訪れています。

<<北野天満宮への行き方>>
嵐電北野白梅町」駅下車、徒歩約7分
住所:京都市上京区馬喰町
北野天満宮社務所 TEL 075-461-0005

・・・ということで6月9日は
北野天満宮が創建された日です。
現在、大勢の受験生が参拝する北野天満宮には
このような背景があったのです。