1912年(明治45年)7月6日(土)、
ストックホルム五輪の開会式が開かれました。
(日本五輪初参加)
スウェーデンのストックホルムで開催されたこの五輪は、参加選手は28か国2406名
(女性は47名でテニス、飛込、水泳に出場)で、18競技102種目が行われました。
この大会では、日本がアジアの国としての初めてオリンピックに参加しました。
(初めて五輪に参加した日本人選手は2名)
日本人として初めて五輪に参加した2人。
下は、その2人が選考された時の記事です。
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/288)
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/300)
(7月6日開会式)
五輪の開会式が行われたのは7月6日土曜日。3万人の観衆の中、日本選手団は10番目に入場しました。
日本人選手団はわずか4人。選手団長はアジア初のIOC・国際オリンピック委員会の委員の嘉納治五郎です。
参加選手は2人で、1人は陸上競技短距離の三島野弥彦です。
もう1人はマラソンの金栗四三でした。金栗は当時のマラソンの世界記録を更新していました。
下の写真は7月6日の開会式の日本選手団です。プラカードを持っているのは金栗、日本の国旗を持っているのは三島です。
二人とも白の半袖ユニフォームにパンツ姿で、三島は黒のソックス、金栗は黒足袋だったそうです。
(NIPPON)
日本の入場行進のプラカードをよく見ると表記が「NIPPON」となっています。「JAPAN」ではありません。
この「NIPPON」の表記を決めたのは、ストックホルム五輪日本選手団団長を務めた
嘉納治五郎です。
なお日本選手団がプラカードで「NIPPON」と表記したのは、この大会だけで、以降のオリンピックは全て「JAPAN」という表記です。
(三島選手)
短距離の三島は、7月6日に、100m予選でトップに1秒以上の差をつけられ敗退。200m予選も英米独の3選手に敗れ最下位。
400メートルは準決勝進出の権利を得たもの、右足の激しい痛みのために棄権しました。当時の日本人と西欧人の体力の差は大きく三島は「日本人には短距離は無理そうだ」と話しています。
下の写真は400メートル走予選の三島です。
下は三島選手の失格を報じる記事です。
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/314)
一方、マラソンの世界記録を更新した実績で活躍が期待された金栗は、7月14日に開催されたマラソンに出場します。しかし日射病でマラソン中に行方不明となりました。
このマラソンが出場者68名中、完走は半分の34名で亡くなる者も出るという過酷なレースでした。
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/315)
(五輪に初参加した日本人選手の苦労)
こうして初参加した日本人選手ですが、様々な苦労に直面しました。
当時は五輪は現在のように注目されておらず参加費用も自費でした。金栗は基金を集め渡航資金を調達しました。
しかも日本は、五輪出場選手に対してスケジュール調整や選手の体調管理などのノウハウを持っていませんでした。
またストックホルムへの移動も、シベリア鉄道での20日間近い長旅でした。
下に地図がありますが、ストックホルムは日本からこの距離です。この長くて遠い距離を陸路で行くのです。
飛行機で行くにも時間がかかりそうなのに、当時は飛行機がまだないので、延々と鉄道でいくのです。これはしんどいですよ。
こうしてようやくスウェーデンに着いたわけですが、スウェーデンは、オリンピック開催期間は白夜であったため、白夜に初体験の2人の日本人は睡眠不足になり、身体のリズムがおかしくなります。
また食べ物に関しても、米などを準備してなく、慣れないスウェーデン料理なので苦労します。
マラソン世界記録の金栗にいたっては、舗装された路面での練習に慣れてなく、ヒザを痛め、またマラソンの当日に迎えに来るはずの車が来なかったために、競技場まで走らなければいけなかった。というハンディがありました。
日本人初の五輪出場に関してはこれがお勧めです👇
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・・・ということで
7月6日は
日本人が初めて参加した五輪の開会式が行われた日です。