吉原遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、
名残を惜しんで後ろを振り返ったことから命名された
「見返り柳(みかえりやなぎ)」が
台東区千束の吉原大門交差点にあります。
(見返り柳)
台東区千束の吉原大門交差点にある1本の柳の木。通称「見返り柳」です。細い木です。
写真はかつての吉原大門です。
かつて、ここは吉原遊郭の入り口でした。吉原遊郭で遊んだ客が帰るときに、名残惜しんで振り返ったことから、見返り柳(みかえりやなぎ)という名前がついたと伝わってます。
実際に見た感じ、枝もわずかしかなく1本の棒のようです。
下の図は江戸時代末期の1846年に出された吉原の見取り図の一部です。吉原遊郭に入る前の赤で囲んだ場所が、見返り柳です。
(現在は6代目)
この見返り柳の木は、関東大震災や東京大空襲などで何度か焼失したために植え替えられていて、2024年(令和6年)現在あるのは6代目だと言うことです。
(江戸幕府が公認し300年続いた吉原遊郭)
吉原遊郭は、1617年に江戸幕府公認の遊郭として誕生しました。
当初は江戸城から近い現在の中央区日本橋人形町に作られましたが、江戸の人口増加や1657年に起きた明暦の大火などから、現在の台東区千束へと移転しました。
移転した吉原は新吉原と呼ばれ、数千人もの遊女がいました。
下の写真は1897年(明治30年)頃の吉原の仲之町です。写真右には三階建ての妓楼に時計台がついています。
下は同じく仲之町の引手茶屋です。
この新吉原は、1958年(昭和33年)まで続きました。
吉原は、江戸で唯一、幕府公認の遊郭であり、同時に文化の発信地でもあり、遊女たちの髷や衣装などは、浮世絵や歌舞伎などから人々へと伝わります。
<<吉原の見返り柳への行き方>>
台東区千束4-10-8
幕府公認の吉原遊郭は1958年(昭和33年に)姿を消し、当時の面影は今ではほとんど残っていません。
ただ柳の木だけが
代を受け継ぎながら街を見続けていました。