新政府になったときに、大阪堺の旧堺港で、
土佐藩士とフランス水兵の衝突した堺事件。
その事件の責任をとり切腹した土佐藩士の墓が
切腹した妙国寺の向かいの宝珠院にあります。
(堺事件とは)
1868年(慶応4年=この年の9月に明治になります)2月15日、新政府の命令により泉州堺の警護を行っていた土佐藩兵が,15日午後3時頃、日本政府の許可を得ずに海から堺港に入ったフランスの水兵が、無断で上陸して街を歩いていました。
夕方、知らせを受けた六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)と八番隊警備隊長の西村氏同(佐平次)らは、フランス兵達に艦に戻るように説得します。しかし言葉が通じず話が進みません。
そこで土佐藩兵は、フランス水兵を捕縛しようとしますが、これで、土佐藩兵とフランス水兵は小競り合いとなります。
そしてフランスの水兵が土佐藩の隊旗を奪って逃げようとします。ここで重要なのは藩旗です。この時代藩旗は軍旗と同じくらい重要で大切な物です。
そのため土佐藩の箕浦が発砲し、それを機に日仏双方が銃撃戦となります。
この小競り合いでフランス水兵は11人が死亡します。
下は事件の様子を伝えるフランスの週刊ニュース雑誌「ル・モンド・イリュストレ」の記事です。
(関係者に切腹を命ず)
このことに対し、フランス側は事件に関わった者の処刑、15万ドルの賠償など5ヶ条の謝罪を要求します。
これをうけ政府は、関係者20名の処刑を土佐藩に命じます。土佐藩は、警備隊長の箕浦猪之吉と西村佐平次、隊小頭の池上弥三吉 と大石甚吉 の4名ほか、名乗り出た25名の藩士の中から16名をくじ引きで決め、彼らに切腹を命じます。
(妙国寺で切腹)
こうして土佐藩の20人は、2月23日、事件現場近くにある妙國寺で切腹します。
(壮絶な切腹にフランス人困惑)
妙興寺境内での切腹は、フランス軍士官立ち会いのもとに行われました。
武士のとして次々と切腹をする彼らの苦悶の表情と、斬られた腹の中から出てくる内蔵、さらに介錯で行われる首斬り・・を次々と見せられたフランス士官は、残酷で見るに耐えないとして、犠牲者と同じ11名が切腹したところで中止を申し入れます。
(11人は宝珠院に葬られる)
こうして命を落とした土佐藩の11名は、切腹した妙国寺の正面にある宝珠院に葬られます。
この墓碑は土佐藩主 山内豊範により建てられ、後に修復されました。この墓碑の正面には戒名、側面に俗名が彫られています。
<<土佐十一烈士墓への行き方>>
南海高野線「堺東駅」より徒歩8分、阪堺電軌阪堺線「妙国寺前駅」より徒歩1分
宝珠学園幼稚園内