山口県下関市、関門海峡壇ノ浦に面した海岸の公園に、朝鮮通信使上陸淹留之地(ちょうせんつうしんし じょうりく えんりゅうのち)の碑があります。
(鎖国=「外国と遮断」ではない)
1639年に徳川家光が鎖国を完成させたために、「江戸時代は、日本は外国との貿易を全くしていなかった」と勘違いをしている人がいます。
しかし、よく考えると日本は、清国・李氏朝鮮・オランダとは貿易をしていました。
日本には、当時、外国との交易が認められた4つの地区がありました。
それは、①長崎:オランダと清 ②対馬:李氏朝鮮 ③薩摩:琉球国 ④蝦夷:アイヌ
で、それぞれ貿易をしていました。
(朝鮮通信使上陸淹留の地)
山口県下関市にある、朝鮮通信使上陸淹留の地は、壇ノ浦に面した赤間神宮の駐車場の横にある阿弥陀寺公園に建てられています。
「淹留」とは「えんりゅう」と読み、「長く同じ場所に滞在する」という意味です。
(朝鮮通信使、日本本土最初の上陸地)
朝鮮通信使は、正使以下500名にも及ぶ外交使節団。1607年から1811年に至までの間、12回来日しています。
そのうち最後の回を除いた1764年までの11回は、日本本土への最初の地として
下関に上陸しています。また復路においても下関に立ち寄っていました。
朝鮮通信使の下関での客館は、赤間神宮の前身である阿弥陀寺と、その近くにある引接寺です。各使行の通信使はここに宿泊して、安徳天皇の悲劇を見聞し、壇ノ浦懐古詩を作詩することを慣例としていたそうです。
宿舎には、当時、儒学の先進国であった朝鮮の人から水準の高い文化を吸収しようと多くの藩士、文人が集まったそうです。
(朝鮮通信使は長旅の大行列)
通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されていました。
江戸時代の朝鮮通信使のメンバーの編成は、使・副使・書状官の3使に輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊,旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫などいて500人前後の一行です。これに対馬藩からの案内や警護1500人ほどが加わりました。
ある記録によると朝鮮通信使は、プサンから海路で対馬に行き、その後、下関を経て瀬戸内海に入り、兵庫などに寄港しながら大阪、さらに京都に行き江戸に向かうというルートをとったそうです。
1719年の記録では対馬から大坂の海路に45日間、大坂の滞在に6日間、大坂から江戸の陸路に18日間ということで全行程に8ヶ月から10ヶ月を要した大移動でした。
(再現パレード)
おっさんがここを訪れた2019年(令和元年)8月24日土曜日は、この地で「朝鮮通信使」の行列を再現する日韓交流イベントが開かれていまいました。
当時の使節団の様子を再現したパレードが行われました。
このイベントは、2004年から下関市と韓国のプサン広域市が交流を深めるために毎年開催しています。
【2019年(令和元年)8月24日の朝鮮通信使再現イベントを紹介した「朝日新聞」記事はこちらです。動画もあります】
<<朝鮮通信使淹留の地への行き方>>
赤間神宮の正面、道路沿いに案内版があります。
赤間神宮の対岸の海沿い、駐車場の横の阿弥陀寺公園に建てられています。