おっさんは、仲がいい先輩と京都を旅行しました。
単なるおっさんの観光旅行や宴会旅行ではありませんよ、
京都・宮本武蔵の足跡を訪ねる旅です。
剣豪・宮本武蔵は、巌流島での佐々木小次郎との戦いが有名ですが、
その前に京都で名門吉岡道場と大きな戦いを繰り返しています。
今回おっさんたちは、そのゆかりの地・5か所を訪ねました。
第1回は、宮本武蔵が吉岡道場の吉岡伝七郎と決闘した蓮華王院・三十三間堂です。
(伝七郎との決闘に至るまで)
武蔵は、21歳の時、自らの剣の腕を信じ、名を上げるために、吉岡道場に戦いを挑みます。吉岡道場は足利将軍の剣術指南役を務めたことがある京都の有力な剣術道場です。
武蔵が道場を訪れたときには、師範の清十郎が不在でした。
そのため道場で腕が立つと評判だった門弟たちを次々に倒し、清十郎に挑戦状を送ります。
さらに、京都の五条大橋に決闘を伝える高札を揚げ、市民に決闘を周知し、清十郎が
逃げることをできなくします。
そして1604年の春、京都の蓮台野(れんだいの)で吉岡道場師範の吉岡清十郎との果し合いをします。ここで武蔵は、遅刻作戦を行い、清十郎を木刀で倒します。なお、この時、清十郎は死亡していません。
それから間もなくして、今度は吉岡清十郎の弟と伝七郎と戦います。
決闘の場所は、京都東山の蓮華王院・三十三間堂です。
(三十三間堂での戦い)
おっさんたちは、三十三間堂へと向かいました。
京都駅から徒歩25分程度、いい散歩です。
三十三間堂は、年中無休、料金は一般600円、中高校生400円、子供300円です。
大勢の観光客が三十三間堂の中を観覧するのですが、おっさんたちの目的は武蔵決闘の地なので外から観光です。
どうやら決闘をしたと思わる長い縁側がありました。
吉川英治が書いた『宮本武蔵』では、この三十三間堂の南側にある長い縁側で武蔵と
吉岡伝七郎が決闘しています。
両者は、100メートル以上のこの長い廊下を走り、一瞬のスキを突いた武蔵が伝七郎を倒したとされます。
推測するに、この縁側で武蔵と伝七郎の決闘が行われたのでしょう。
その縁側は、的の射場としても有名だそうです。
安土桃山時代や江戸時代には「通し矢」と呼ばれる行事が盛んに行われました。
安土桃山時代には120mの距離からお堂にある窓の隙間を通す「百射・千射」、江戸時代には、一日かけて弓矢が何本お堂の軒下を通ったかを競う「大矢数」が盛んだった
そうです。
その後、三十三間堂の中に入り色々と見ましたが、宮本武蔵と吉岡伝七郎の決闘に関してはほんの少ししか説明がありませんでした。
<<三十三間堂の簡単な説明>>
三十三間堂の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂・法住寺殿(ほうじゅうじでん)の一角に建てられた仏殿です。
三十三間堂は、旧暦の1614年12月17日(ユリウス暦1165年1月30日)に完成し 当時は境内に五重塔もある寺院でしたが、1249年に焼失しています。 現在のお堂は、1266年の鎌倉時代に再建されました。
南北約120mの本堂内陣の柱間が33あることから三十三間堂と呼ばれています。
丈六千手観音坐像、1000体の等身大千手観音立像、風神・雷神像など多くの国宝や重要文化財があります。
(太閤塀)
三十三間堂には、豊臣秀吉によって寄進された「太閤塀」があります。
【蓮華王院・三十三間堂公式HP】
<<三十三間堂への行き方>>
おっさんたちは、JR京都駅から歩きました。徒歩25分くらい。
JR京都駅から市バスで10分(100・206・208系統「博物館三十三間堂前」下車すぐ) 京阪七条駅から徒歩で7分
定休日 :年中無休
営業時間 :8:00~17:00(11月16日~3月末日までは9:00~16:00)
料金 :一般600円、中高校生400円、子供300円
(次回予告!!)
師範清十郎に加え、弟の伝七郎も倒され面子が丸つぶれとなった吉岡一門は、武蔵への復讐を決意します。それが3度目の戦いとなる「一条寺下り松の決闘」です。次回は、その戦いの前に武蔵が修業した場所を紹介!!
【宮本武蔵を読むなら】
【小説は苦手なので漫画で武蔵を知りたいという人は】