2月14日は、940年に平将門が死亡した日です。
2月14日(旧歴)、新皇と称した平将門が追討に来た平貞盛・藤原秀郷連合軍と茨城県坂東市の下総国猿島で戦い流れ矢が額に当たり死亡しました。
この戦では、最初、将門軍は風上に立ち連合軍と戦闘を繰り広げ、風を利用し弓矢を放ち優勢に立ちます。
しかし、急に風向きが逆に変わります。つまり、向かい風になり戦いが不利になります。
そこで士気を上げようと将門は先頭に立ちますが、飛んできた敵の矢が額に当たり討ち死にします。
それの日が2月14日です。
将門の首は京都の朝廷のもとに送られ鴨川の河原でさらし首となります。
これは京都の鴨川でのさらし首の第1号です。
反乱を起こし、独立し新皇と称した将門の行動は朝廷や人々に大きな衝撃を与えたと思います。
しかも都に朝廷があるのに「今日から俺が新しい天皇だ」なんて勝手に宣言するんですから、朝廷は将門の行為を許すわけにはいかないのです。
反乱を起こした者がどうなるのか、その見せしめをする必要があったのです。
言い伝えによると、将門の首は何ヶ月たっても腐らず生きているかのように目を見開き歯ぎしりしているかのようだといいます。
そしてある日、将門の首は胴体を求めて東へ飛び去ったといわれます。たどり着いたのが、現在の大手町の将門首塚があるところだといわれています。
(将門の乱とは)
939年、平安時代のこの年、瀬戸内で藤原純友の乱、関東で平将門の乱が起きました。
東国で乱を起こした平将門は、桓武天皇を先祖に持つ平氏で、千葉県西部の下総を本拠地としていた豪族です。
ほったんは、一族の争いでしたが、その争いは、関東一円を巻き込んだ争いにまで広がります。
そして939年11月21日に、平将門は兵を率いて国府を襲撃し長官を捕らえます。
翌12月には下野、上野の両国府も占領。
12月19日に上野国府で新皇を自称し、岩井(現在の茨城県坂東市)に政庁を置き、独自に坂東8カ国の国司を任命しました。
将門が治める坂東8か国は、京都の朝廷に対して事実上の独立地域となりました。
京都の朝廷には朱雀天皇がいましたので、この時期には日本に京都の朝廷と将門が治める国の2つの政権が存在したことになります。
しかし将門は京都から追討軍に討ち取られます。
新皇として即位後わずか2か月たらずでした。
【押さえておきたい都内に残る将門関連の地】
(将門首塚)
都内のオフィス街・大手町のど真ん中にある「将門首塚」
京都からの軍勢に打ちとられた将門は、その首は京都の都大路でさらし首になります。
「さらし首になっても、怒りが収まらず将門の首がこの地に飛んできた」という伝説でできたのが、この首塚です。
将門の怨念はすさまじく、この塚に失礼な事をしようとした人がケガをしたり、最悪の場合は命を落とすなど不幸が相次いだといいます。
その一方で、ご利益もあります。ここにお参りすると「栄転する」らしいです。
<<将門首塚への行き方>>
地下鉄東京メトロ・都営地下鉄の大手町駅C5あるいはC6から出てすぐ
住所:東京都千代田区大手町1-2-1
(神田明神)
ここに祀られている御祭神の中に平将門があります。
神田明神は730年に創建されましたが、元々は現在の場所ではなく、上記に書いた千代田区大手町の将門首塚があった場所にありました。
現在は、お茶の水に移りましたが、神田明神には、一の宮・だいこく様、二の宮・えびす様、三の宮・まさかど様の3柱が祀られていて、この「まさかど様」が平将門のことです。
三の宮・まさかど柱は、勝利のご利益があるそうです。
<<神田明神への行き方>>
御茶ノ水駅より徒歩5分
住所: 東京都千代田区外神田2丁目16-2
(鎧神社)
この神社は、平将門の鎧が埋められていることから、鎧神社と名付けられています。
この松の木が目印です。
940年、平将門が藤原秀衡に討たれると、この地の人々はその死を悼み、
将門の鎧をここに埋めたと言われています。
<<鎧神社への行き方>>
JR大久保駅から徒歩10分程度、 JR東中野駅から徒歩15分程度
住所:新宿区北新宿3-16-18
【史跡将門塚保存会公式HP】
2月14日は、
新皇・平将門が討たれ死亡した日です。