6月12日は、645年蘇我氏を滅ぼした乙巳の変が起きた日です。
(背景)
7世紀になると中国では隋に代わって唐が中国を統一します。
日本は唐に対抗できる国づくりを進めるため国力を高めようとします。
と同時に朝廷内では、独裁政治を行い天皇もしのぐ勢いの蘇我一族に対し不満が高まります。
この情勢をみた中大兄皇子(舒明天皇の皇子で、のちの天智天皇)は、蹴鞠で靴を拾ってくれたことが縁で知り合った中臣鎌子(のちの中臣鎌足=藤原鎌足)と組んで蘇我入鹿・蝦夷の殺害を計画します。
(日本書記にみる「乙巳の変」)
おっさんは昔、大学生の時に暇なんで日本書紀を読みましたが、そこに乙巳の変に関しての記述があります。
今も手元に日本書記があるので、乙巳の変の部分を要約します。
645年6月12日、三国(新羅・百済・高句麗)の使者が来日し、朝廷の大極殿で三国の調の儀式が行われました。この席には、皇極天皇と大臣の蘇我入鹿も参加しました。 中大兄皇子は、この機会に、蘇我入鹿の暗殺を謀ります。
儀式当日、中大兄皇子は、長槍を持って大極殿の脇に隠れていましたが、入鹿を切りつける役の1人の佐伯子麻呂が緊張して動けなかったため、自ら飛び出して入鹿を頭から肩にかけ切りつけます。
そして、それに触発され佐伯子麻呂も入鹿の片脚を斬ります。入鹿は転倒し「私に何の罪があるのか」と言います。
天皇は目の前で起きたことに驚き中大兄皇子に「これはいったい何事だ」と問います。すると、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えます。そして佐伯子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺します。
この日は大雨が降り、庭にはあふれ流れる水がいっぱいになっていました。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。
翌日、入鹿の父・蝦夷は舘に火を放ち自殺します。こうして、長年にわたり朝廷で勢力を誇った蘇我の本家は滅びます。
6月14日には、皇極天皇は軽皇子へ譲位し孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子になります。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、
中臣鎌足を内臣に任命し、「大化の改新」と呼ばれる政治改革を行います。
(大化の改新とは?)
「大化の改新」は歴史の教科書には必ず出るキーワードですが、それでは、何をやったんでしょうか?
まず一新するため蘇我氏滅亡後に、都を難波の難波宮に移します。大化の改新のほとんどは、この宮で行われます。
また、これまで豪族が支配していた土地や人民を国のものにして(公地公民)、天皇の支配下にします。
これを機に中国にならい日本も初めて年号を「「大化」とします。これが現在の「令和」まで1400年近く続く年号の最初です。
(みせしめになった謀反者・蘇我氏)
先祖代々大臣を歴任し飛鳥の朝廷では、大きな勢力を誇った蘇我氏は。最後は暗殺され、自害し、哀れな末路を遂げます。
暗殺された蘇我入鹿の墓と言われる入鹿首塚は、蘇我氏の氏寺と言われる飛鳥寺のすぐ横にありますが、看板も何もなくむき出しです。
【入鹿首塚について書いたブログはここ】
また入鹿のおじいさんの馬子の墓と言われる石舞台古墳は、岩がむき出しで中も空洞です。
【石舞台古墳について書いたブログはここ】
【蘇我馬子を紹介したブログはここ】
地元のガイドの人に聞いたら、天皇に背いた謀反者ということでこのように見せしめになったそうです。
ここで注意したいのは、乙巳の変で蘇我氏が全滅したわけではありません。
蘇我氏の主流の総本家が滅んだだけで傍流は生き延びています。
例えば蘇我馬子の側室の子で、蝦夷の異母弟の倉麻呂の子供(入鹿のいとこ)に石川麻呂や蓮子、赤兄がいますが、天智天皇の時代に赤兄は左大臣、蓮子は右大臣になっています。
・・というわけで6月12日は、
です。