4月28日は、象の日です。
というのは、1729年のこの日に
象が、当時の中御門天皇にあった日なのです。
【大里文化会・大里柳共有組合設置の豊前大里宿絵図より】
江戸時代の、この象の来日のきっかけは、中国・清の商人が当時の将軍・徳川吉宗に
象を献上したいと言い出した事が発端でした。
そこで1728年、ベトナムの雄雌2匹の象が日本へ船に向かい、当時の海外との窓口に
なっていた長崎に上陸します。
しかし、慣れない生活や気候、食べ物の影響なのか、雌の象は死亡します。
なお、この象は日本初上陸ではありません。
歴史に残る、日本に上陸した象は、この時代より前の、室町時代に4代将軍足利義持の1408年に献上するために、福井県の小浜市に入船したという記録があります。
さて、話は江戸時代の象に戻って・・。
長崎に上陸した象は、日本の気候になじませるために、しばらく、ここ長崎に滞在し
越冬します。
その後、1729年3月13日に長崎を出発、長崎街道を歩いて江戸に向かいます。
この時代は、天皇は中御門天皇、江戸幕府では1716年に徳川吉宗が8代将軍になり、
享保の改革を始めていました。
ここで想像して下さい。
今まで鎖国で外国との交流がわずかだった江戸時代、象の存在を知った人がどれくらいいたのか? ほとんどの人が見たことがなく、また絵や文献で象の事を知っている人もわずかだったと推測されます。
海外に住む、「鼻が長くて巨大な生き物」が海を越えてやってくるというので、人々は興奮したと思います。
象は、長崎から江戸まで歩いていくので、その道中には 象を一目見ようと多くの人が押し掛けたのは想像できると思います。
当時の文献を見ると、象は3月24日に小倉城下に入ります。
小倉では藩主の小笠原忠基が象見物を行っています。
象は、長崎街道の大里の宿場を通ります。
現在、北九州市門司にある門司大里の長崎街道の紹介MAPには、その時の象の絵が描かれています。
その図には「徳川八代将軍吉宗公に献上の象1頭、長崎より到来する」と書かれています。
【大里文化会・大里柳共有組合設置の豊前大里宿絵図より】
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翌日、大里海岸から船に乗って関門海峡を渡り、本州へうつります。
【大里文化会・大里柳共有組合設置の豊前大里宿絵図より】
関門海峡を船で渡った象は、下関から歩いて4月16日に大阪に到着します。
「将軍・徳川吉宗に象が会いに来る」と聞いた時の天皇・中御門帝は、自分も象を見たいと思い、象が江戸につく前に途中の京都で象に会うことになりました。
(象に官位を与える!!)
これまで無位無官の者が宮中に参内するのは先例がなく、象とはいえ、天皇に会うには、官位が必要となります。
そのため、朝廷は、この象に4月23日に「広南従四位白象」という位階と称号をあたえます。
この「江南」は象の産地の現在のホーチミン市の当時の呼び名です。
「従四位」は、官位。
さて、官位を拝命した象は同23日に京都に到着。
そして4月28日に、中御門天皇に会います。
御所に入った象は、宮中において中御門天皇と会った時には、台盤所の前で前足を折って頭を下げる仕草をしたそうです。
この日を記念し4月28日が、象の日になりました。
(その後)
象は5月25日に江戸に着き、27日、江戸城で徳川吉宗と会い、しばらくは幕府で飼育されていました。
その後、民間に払い下げられ、現在の中野区に住む百姓の源助が、中野の成願寺の
そば、現在の中野区立朝日が丘公園に象厩象小屋を建てて、そこで養っていました。
しかし1742年病気になり、21歳で死亡します。
象は、道中各地でブームを巻き起こし、象が通る場所は、連日大フィーバーになっていました。象にまつわるさまざまな書籍や瓦版、版画、双六などが現れました。
これ以降も象は1824年、1863年にも渡来しています。
いずれも全国各地で動物見世物興行してまわり、大人気で多くの人が集まったそうです。
【この象の話について書いた本はこちら】
というわけで、4月28日は、象は天皇に謁見した日です。