安土桃山時代の1598年 8月18日、
天下人・豊臣秀吉が62歳で生涯を終えます
秀吉と言えば大坂城を連想する人も多いと思います。
大坂城を作った豊臣秀吉は、百姓から天下人に成り上がった人物です。
(百姓から天下人へ)
豊臣秀吉は、室町時代の後期1537年に名古屋尾張中村の農民の子として生まれました。
織田信長の家来の時に、草履を懐で暖めたり、墨俣に一夜城を築いたり、
知恵とアイディアで戦国時代を生き抜いた人です。
1582年には謀反で織田信長を殺した明智光秀を打ち滅ぼします。
よく戦いでこの一戦が大きな分かれ目になる決戦のことを「天王山」と言いますが、
秀吉と光秀の戦いは天王山の戦いで、ここから由来しています。
秀吉は、光秀に勝利した後も、さらにさまざまな敵を破り、
百姓の身分として初の1585年に関白になり、さらに1586年には太政大臣になります。
そして1590年に天下を統一します。
秀吉は1592年に関白の職を甥の秀次に譲ります。
なお、秀吉の事を「太閤」と言いますが、「太閤」とは称号で、自身が摂政や関白の地位を退き、子供などがその地位を継いだ人の事を指します。
(大坂城を築城)
大坂のシンボルの1つ大坂城は、1583年から1589年にかけて豊臣秀吉が築いた城です。しかし、大坂夏の陣で徳川勢によって破壊されました。
現在見ることができる大阪城は、徳川時代に再建されたものです。
天下人になる寸前あたりから秀吉がおかしくなってきたように思えます。
秀吉は、文化人の千利休や甥の秀次を自殺に追い込んだり、キリストを禁令にして、
宣教師を殺害します。
また海外進出をたくらみ朝鮮出兵を二度も行い、またフィリピンにも自分の支配下になるように文書を送るなどその方向がおかしくなっていきます。
そして秀吉は、1598年の今日 この日、二度目の朝鮮出兵中に京都・伏見城で62年の生涯に幕を閉じました。
辞世の歌
「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速の事も 夢の又夢」
が有名です。
・ということで8月18日は豊臣秀吉が亡くなった日です。