室町時代の末期1568年10月18日、足利義昭が、室町幕府・第15代将軍に就任します。
今年2020年(令和2年)のNHKの大河ドラマは、明智光秀が主人公の「麒麟が来る」。おっさんは毎週楽しみに見ていますが、今回のブログに書いた話はちょうど大河ドラマとシンクロする話です。
(足利義昭とは)
足利義昭(よしあき)は、第12代室町幕府将軍・足利義晴(よしはる)の子供で、
第13代将軍・義輝の弟です。
足利義昭は、越前・福井の朝倉義景のもとに身を寄せていましたが、
自分を将軍にするために上洛しようという意思が見えない朝倉義景のもとを去り、
1568年9月に、信長は義昭を奉じ、6万の大軍を率いて上洛します。当時、京の町を支配していた三好三人衆を追放し1568年10月18日に、足利義昭は、朝廷から、正式な宣下を受けて、室町幕府・第15代将軍に就任します。
義昭と信長を結びつけたのが、大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公。明智光秀です。
しかしこの5年後の1573年、足利義昭は、将軍職につけてくれた織田信長によって京都を追放されます。
この時代になると、天下を治めるべき武家の棟梁で最高の地位にあるべき将軍の地位が軽んじられていますね。
この義昭追放で足利将軍が支配した室町幕府は事実上消滅したと日本史の教科書には
書いてあります。
(京都追放後も将軍であり続けた足利義昭)
京都を追放された足利義昭ですが、1576年には中国地方の毛利輝元を頼り、その支配下の備後国の鞆(とも)に移りいわゆる足利亡命政府を作ります。
これは鞆幕府(ともばくふ)と呼ばれています。後に鞆城となる鞆要害に義昭の居館があったとされています。義昭の警護には一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康が
あたっていたといいます。
1582年6月2日に信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で死亡します。これを機に義昭は鞆城から居所を津之郷(現福山市津之郷町)へと移します。
1583年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、1585年7月には豊臣秀吉が関白太政大臣となります。
つまりこの時点で「関白は豊臣秀吉・将軍は足利義昭」という時代になり、この期間が2年半続きます。
1587年10月、足利義昭は京都に帰還し、翌年の1588年1月13日に秀吉に従って参内し、正式に将軍職を辞します。
つまりこの1588年まで足利義昭は、名目上は征夷大将軍であり足利幕府の15代将軍だったのです。
また、この時期に天下人になった秀吉は、なんとか武家の最高位の征夷大将軍になりたくて足利義昭の養子になろうと画策したものの「身分が違いすぎる」と義昭に拒絶されたという説もあります。
以後、足利義昭は、朝鮮出兵などにも協力したのち、1597年8月大阪で死亡します。
享年61.。
こうした足利義昭が将軍職に就いた背景や流れを頭に入れて見ると