「桜田門外の変」の現場に行ってきました!!
「桜田門外の変」日本史の教科書に必ず出てくる事件です。
桜田門外の変は、江戸時代末期の、1860年3月3日に江戸城桜田門外、
現在の東京都千代田区霞が関周辺で水戸藩から脱藩した17名と薩摩藩士の合計18名が
江戸城に向かう途中の彦根藩の行列を襲撃し、その中にいた大老の井伊直弼を暗殺した事件です。
幕府の権力者といえる大老が、白昼に江戸城の門前で襲撃を受け暗殺されたこの事件は、幕府にとっての大きなイメージダウンとなり,以後幕府は朝廷との友好を目指し、公武合体へと政策を転換していきます。
(桜田門)
江戸城の内堀に作られた門の1つです。下の写真の中央に見えます。
近くに寄るとこの門です。
こんな看板が・・・。
この桜田門外の変の要因は3つ考えられます。
①当時、朝廷は鎖国攘夷を主張していましたが、幕府の大老井伊直弼が天皇の許可を得ないままに外国と通商条約、すなわち日米修好通商条約を1858年に勝手に調印します。
そのため幕府は ,朝廷や鎖国攘夷派の諸雄藩の非難を受け反感を買います。
②将軍後継ぎ問題も絡んできます。
当時、紀州派と一橋派(水戸派)が、誰を次期将軍にするかで対立していました。
尊王攘夷主義の中心であった水戸藩は井伊と対抗し,一橋慶喜を将軍にするよう朝廷に働きかけていました。しかし井伊直弼は水戸派を退け家茂が将軍になります。
水戸藩としては自分達が推す人物が将軍にならないので面白くありません。
③さらに幕府は、反対派の公家、武士などを安政の大獄で弾圧します。
その中には水戸藩士も含まれていました。
このような背景が重なり 水戸藩と井伊直弼の間が非常に険悪になります。
そして襲撃暗殺となります。
【令和の今の再現イメージ:特別におっさんの先輩2人が友情出演】
【イメージ:桜田門外で2人の仲間に背後から切りかかるおっさん】
井伊直弼が暗殺された桜田門周辺では、もう1つ大きな事件が起きています。
1932年(昭和7年)1月8日に、当時の天皇(昭和天皇)の行列を待ち伏せしていた大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」所属の李奉昌が、麹町の交差点をさしかかった行列に手りゅう弾を投げます。
しかし、この李は、天皇が乗っている馬車を間違え、また爆弾の威力も凄まじいもの
ではなく天皇は無事でした。
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桜田門駅から徒歩3分