1167年、平清盛が武家として史上初の太政大臣になり、その後、平家一門は政府の重要な地位を独占し1169年には全国にある荘園のうち500近くを所有し、また日宋貿易で
莫大な財産を築きます。
「平家にあらずんば人にあらず」なんて言って、おごっていたという話もあります。
清盛の孫は安徳天皇になり、栄華を極めたものの、後白河法皇や源氏を中心にした
反平家勢力が決起し平安時代末期の1185年壇ノ浦の戦いで惨敗。
安徳天皇は入水し、それに続き平家一門の多くが海に沈み命を落とします。
総大将の平宗盛はつかまり、捕虜として鎌倉に送られた後、6月21日、近江国篠原宿で源義経により斬首されます。こうして平氏は滅びます。
(赤間神宮にある平家一門の墓)
平家が滅んだ壇ノ浦に面した山口県下関市には赤間神宮があります。
朱色で、いつ見ても鮮やかで綺麗な建物です。
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(平家一門の墓)
赤間神宮の正面からみて左に進むと平家一門のお墓があります。
この場所には7基ずつ2列に計14基の墓が並び、「七盛塚」あるいは「平家塚」とも呼ばれています。
平家一門の墓の配列は以下の通りです。
【前列】
平有盛(平重盛の四男)
平清経(平重盛の三男)
平資盛(平重盛の次男)
平教経(平教盛の次男)
平経盛(平忠盛の三男)
平知盛(平清盛の四男)
平教盛(平忠盛の四男)
【後列】
平家長
藤原忠光
藤原景経
藤原景俊
平盛嗣
平忠房(平重盛の六男)
平時子(平清盛の正室)
平家の場合、特に平清盛の兄弟、子、孫周辺は基本的には「平●盛」という似たような名前があるんで、こんがらがると思います。
家系図を書いて確認したほうがいいですね。
ここで、気が付きましたか??壇ノ浦の戦いの平家総大将の平宗盛の墓はありません。
この平知盛は、「平家物語」では、トロくてそのくせ傲慢で、壇ノ浦の戦いでも平家の総大将なのオロオロするだけで頼りなく、自決もできず、源氏に捕まっても命乞いを
するなど潔い部分もなく、なんとも愚鈍な性格の武将として描かれています。
(ここでおさらい 壇ノ浦の戦い)
赤間神宮の正面にある壇ノ浦は、平安時代の末期1185年3月に源平最終決戦が行われました。戦いでは、当初は平氏が優勢でしたがも、決戦の舞台となった関門海峡の潮の
流れが変わり、劣勢になります。
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壇ノ浦の戦いで、敗北が決まると安徳天皇の祖母で、平清盛の妻の二位尼が、安徳天皇を抱きかかえ入水します。安徳天皇はわずか8歳(かぞえ年)で生涯を終えます。
壇ノ浦の戦いの6年後の1191年壇ノ浦を望むこの地に、安徳天皇の異母弟となる後鳥羽天皇の命により御影堂が建立されます。これは壇ノ浦でなくなった安徳天皇の霊を慰めるお寺でした。
(壇ノ浦に面した、みもすそ川公園)
壇ノ浦の戦いで、二位尼が入水する際には、「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」という歌を詠んだと言われます。この歌を解釈すると、
「海の底にも都はあります」という意味です。
幼い安徳帝を抱えて心中するときに、安徳帝にこのような言葉をかけたとも言われています。
この歌に由来する みもすそ川公園は赤間神宮から歩いて15分ほどにある関門海峡に
面した公園で入水の碑と壇ノ浦合戦の碑があります。
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JR山陽本線「下関駅」からバス「赤間神宮前」下車