1963年(昭和38年)12月8日に
力道山が刺され15日に死亡します。
(力道山ヒストリー)
力道山。。。
「日本プロレスの創始者」であり、プロレス以外でもマンションやスポーツ施設、
レジャーランドなどを経営する大事業家でもある、国民的英雄の一人です。
力道山は、相撲の関脇を廃業し、建設作業員を経て、プロレスラーとなり渡米。
米国でプロレスのノウハウを身に着け、帰国後は日本プロレス協会(JWA Japan Pro-Wrestling Alliance)を設立し、プロレスを広め定着させます。
力道山以外にも、日本にはプロレスを始めた人がいました。
団体も各地にありました。
しかし、次第に淘汰され、力道山が始めた日本プロレスが生き残りました。
(街頭テレビに黒山の人だかり)
このころ登場し始めたテレビの後押しも受けプロレスが人気となります。
特に終戦直後、敗戦国の日本で戦勝国の外国人をなぎ倒す力道山の雄姿は大人気と
なりテレビでのプロレス中継は大人気。
当時はテレビは超高級品でテレビを持っている家庭はほとんどなく、喫茶店や街頭テレビにはプロレスを一目見ようと多くの人が押し寄せました。
力道山が繰り出す「空手チョップ」は有名で力道山が戦う姿を見ようと街頭テレビに
大勢の人が群がる写真は有名です。
東京の新橋駅の西口広場に設置された街頭テレビには2万人の群衆が殺到したこともあるそうです。
2万人ですよ。2万人!!
力道山はプロモーターや興行主としても才能を発揮し
当時の世界チャンピオンのシャープ兄弟や柔道の鬼と言われた木村政彦との対決、
さらに世界最強と言われたルーテーズとの戦いを繰り広げます。
1963年(昭和38年)には、東京・千駄ヶ谷の東京体育館で行われた力道山対デストロイヤーのWWA世界選手権試合が、プロレスのテレビ最高視聴率となる64.0%を記録しています。
そしてその年の12月8日にクラブラテンクオーターで刺され入院。
その後、容体が急変し12月15日に死亡します。
力道山のプロレスの遺伝子は馬場、猪木へと受け継がれ、現在は日本にはたくさんの
プロレス団体があります。
(力道山の墓)
プロレスの父・力道山のお墓は、東急池上線の池上駅から10分ほど歩いた池上本門寺に
あります。
お墓には、チャンピオンベルトを腰に巻いた力動山の像があるのですぐにわかります。
(力動山の墓の周辺から推測できる社会背景)
力道山の墓の周辺にある墓を見たとき、その周辺の状況をみたときに、おっさんは、
何やら感じることがありました。
また、かつては、何が起きてもプロレスを1面トップに持っていくことが多かった
プロレス専門新聞の東京スポーツを作った人でもあります。
さらに、日本プロレス協会副会長をつとめた東声会会長・町井久之の墓もすぐ近くです。
町井率いる東声会は、日本プロレスが興行を行う場合の東日本の興行を仕切っていたと言われています。
プロレスは大ブームなので興行は大成功!大きな収入となったと考えられます。
さらにこの墓地には、日本プロレスのコミッショナーをつとめた衆議院議員・大野伴睦の墓、その隣りには、東京スポーツ新聞社社長・会長の太刀川家の墓が並んでいます。
うーん、政治家、マスコミ、興行・・・実力者ばかりですね。
こうして力道山の墓の周辺配置をみると、終戦後の日本で大ブームとなったプロレスにかかわる一線級の方が勢揃いしていて、「当時の社会の何か」を感じます。
そこで、以下の本がお勧めです。
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【池上本門寺公式HP】
住所:東京都大田区池上1-1-1
・・・ということで
12月8日は プロレスラー力道山が刺された日です。