8月15日は終戦の日です。
1945年(昭和20年)に、日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争の戦闘行為が事実上停止した日です。
この日は水曜日でした。
(時代背景)
1945年(昭和20年)。
日本本土は連日、米軍の空襲にさらされ、ほぼ焼け野原。
空襲が来てもB29には高射砲は届かず、迎え撃つ戦闘機は不足し、飛行機を飛ばす
原料のガソリンもほとんど枯渇していました。
市民生活を見ると、働き手である成年男子が戦場にとられたため農作業従事者や労働力が不足し、国力も低下していました。
食料は配給制になり、物不足が深刻化し、野草やカエルを食べた方もいるなど国民は、耐久生活を強いられ、我慢して生活していました。
おっさんは、当時生きていた方に色々と話を伺いましたが、このような状況でも「戦争に負けるとは思わなかった」「最後は神風が吹いて戦争に勝つ」と思っていた方が多くいました。
ただ、公園などの便所の落書きには「こんな生活はもういやだ、アメリカに負けて占領されていい暮らしがしたい」とか「負けた方がいい」と言うのがあったそうです。
また、戦地にいた兵隊さんに話を聞くと、物流の差はすさまじく、日本軍は弾薬、
兵器、すべて不足。攻撃する武器もなく、最後は爆弾を抱えての自爆突撃しかなかったのですが、末期には、その自爆攻撃用の爆弾もなく、日本刀をもって夜陰に敵陣に突っ込む作戦しかないのです。
しかし、この突撃攻撃に対し米軍は機関銃で撃ってくるので、どうしようもなかった
そうです。
(ラジオで重大放送)
1945年(昭和20年)8月15日、正午にラジオから玉音放送がありました。
当時15歳だった私の母(昭和4年生まれ、現在92才・健在)は福岡県筑後市の自宅で家族と一緒に玉音放送を聞きました。
しかし、ラジオは雑音が多く、放送の内容が聞き取れず、何を話していたかはわからなかったそうです。
その後、役場の方が「日本が降伏した」と話しだし、ようやくラジオの内容がわかりました。
終戦の知らせを聞いた母親は、「まずこれで空襲がない」 と安心したものの、「鬼畜米英との戦争に負けたので女性は米軍に売りとばされるのではないか」と心配したそうです。
夜になり、空襲の心配もなく各家庭に電気がともっている光景を見て、ああ戦争が終わった と実感したそうです。
(当時は空襲対策で、家の中では電気に覆いをつけ電気が外に漏れないようにしていました。そして、電気が漏れていると見回りの人が「〇〇さーん 電気がもれてまーす」と注意していたそうです)
一方、父(大正10年生まれ、故人)は、陸軍にいてシンガポールで終戦を迎えました。
父はすでに、実際の戦闘を通じて国力の差を感じて「日本は負ける」と実感し、戦死する事を覚悟していました。
戦闘行為が終結し砲弾の音がしなくなり「ああ死なずに済んだ」と感じ「早く内地(日本)に帰りたい。」と思ったそうです。
【日本ニュース8月15日終戦の日の映像】
終戦の日の映像は日本ニュースに収められています。
当時の人々が終戦とどう接したかが映像でわかります。
8月15日の終戦の日に必ずTVに取り上げられるのが、東京九段の靖国神社と、その近くにある千鳥ヶ淵の戦没者墓苑です。
おっさんも可能な限り8月15日は両方に足を運んでいます。
靖国神社では、8月15日には昔の陸軍や海軍の服装の方も多数姿が見れます。
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(終戦日=敗戦ではありません)
よく8月15日を「敗戦の日」と言う人がいますが、それは間違い。
同年9月2日に東京湾上でミズーリ号の上で降伏文書に署名し、これをもって日本の降伏
および、外国の占領下になることが正式になります。
ですから、解釈上は8月15日は「戦闘停止」であり「敗戦」ではありません。
人々の生活・暮らしの大きな転換期となった1945年(昭和20年)8月15日。
戦地で無念の死を遂げられた先輩方、命をささげて戦われた先輩方、
焼け野から立ち上がり今日の日本を築き上げた先輩方
その方々のことを決して忘れることなく、8月15日を考えていこうと思います。
8月15日の正午には、黙とうをしましょう。