いよいよ 大河ドラマ「どうする家康」もクライマックス。豊臣VS徳川の最終章・大坂の陣です。
それではストーリーを見ていきましょう。
(腹をくくる)
豊臣秀頼が大仏再建を行った方広寺の梵鐘の銘に「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を願っている)・「国家安泰」(家康の文字を分断していて不吉)と刻んだことが原因で、豊臣と徳川で亀裂が入ります。
また同時に豊臣家は各地の牢人を集めて、戦支度をしていました。
この事態に徳川家康の軍師的役割を果たしていた本多正信は、「世を敵にまわす腹をくくるしかないでしょうな。」と言います。
(交渉不成立)
この問題解決のため豊臣の家老・片桐且元が、家康のもとを訪れます。
片桐且元に対し、本多正信の子である本多正純が3つの条件のうち1つを飲むように言います。
その3つは
「豊臣秀頼には大坂を退去し国替を行う」
「他の大名と同じように豊臣秀頼が江戸に参勤する」
そして「茶々を人質として江戸に差し出す」です。
片桐且元は、この話を大坂城に持ち帰り、豊臣秀頼と茶々に、徳川の条件をのまない場合は、徳川家と戦になることを伝えます。
しかし豊臣秀頼と茶々は、当然このような条件をのむわけがありません。交渉不成立です。
さらに茶々の側近である大野治長 は、片桐且元を「徳川家に内通した裏切り者だ」と決め付け、暗殺を企てます。これは片桐を追放し大坂城の勢力を我が物にしようという、大野の野望でした。
そこで織田信雄は、京都に住む「五徳」(ごとく:織田信長の娘、織田信雄の妹)と協力し、片桐且元を大坂から脱出させます。
こうして片桐は大坂を逃げ出し徳川家につくことになります。
(板挟みにあう千姫)
方広寺の鐘の文字で対立した豊臣と徳川・・・。
徳川家康の孫娘で、豊臣秀頼の正室である千姫は、徳川と豊臣の両家の板挟みとなりました。
織田信雄は、悲しむ千姫に、「戦は避けましょう。あなたのおじい様には世話になった。わしの最も得意とする兵法をご存じかな。和睦でござる」と明るく笑いサポートします。
(汚れ役)
一方、徳川方に目を向けると、二代将軍・秀忠は、正室・江(ごう)に、大阪との戦の総大将を務めるよう言われます。将軍なのですから。。。
豊臣と徳川の戦の気運が高まる中、大阪では多くの牢人があつまり、その数は10万人にも上りました。その中には、大谷吉継の息子・大谷吉治や真田信繁、後藤正親などがいます。
一方、家康は、大阪城の南の茶臼山に本陣を敷しきました。徳川軍は30万と、数の上では豊臣軍を大きく上回ります。しかし、戦経験がない若者が多いのが悩みの種でした。
茶臼山で指揮をとる家康は「この戦は、徳川が汚名を着る戦となる。信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ逝く。それが、最後の役目じゃ」と言い自らが汚れ役を背負うことを決意します。
(カルバリン砲)
戦いが始まると徳川は、連戦連勝ですぐに大阪城を取り囲みます。
しかし大阪城は、堀がめぐらされた難攻不落の城です。
また、徳川軍の正面には、真田幸村と信繁が築いた砦・真田丸があり、ここからの真田勢の攻撃で、徳川軍は苦戦を強いられます。真田の鉄砲隊につかまり、多くの戦死者をだしていたのです。
豊臣方は、家康からの再三の和議申し出に応じません。
そこで家康は、大坂城の北側にある備前島砲台からイギリス製のカルバリン砲で大坂城本丸を攻撃します。
カルバリン砲は、家康がイギリスから購入したもので、14キログラムの砲弾を6.3キロ 飛ばしたと言われます。このカルバリン砲は、ヨーロッパでは戦艦に乗せ砲撃する大砲としても使われていたそうです。
大坂城内には家康の孫で秀忠の娘の千姫がいるので秀忠は家康に「こんなのは戦ではない」と攻撃を止めさせようとします。
しかし、家康は「これが戦じゃ…。この世で最も愚かで、醜い…人の所業じゃ」と言い、攻撃を続けます。
12月16日、カルバリン砲が発射した弾は、大坂城本丸の一部を破壊します。この攻撃で、茶々の侍女も数名が死亡します。
直撃をうけた大坂城の天守は、天井板がくずれ落ちそうになります。その下には千姫がいました。
天井が崩れそうになったとき、茶々は飛び出し、千姫を救おうとおおいかぶさります。茶々が多いかぶさったことで助けられた千姫は気がつくと、攻撃を受け荒れ果てた大坂城天守閣の惨状を目の当たりにします。
さあ、どうなるか。。次回に続きます。
<大坂冬の陣でカルバリン砲が発射されたと
推定される場所に行きました↓>