大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
最近は日曜日にBSで見て、ストーリーを書いてもう一度流れを把握し
土曜日13時5分からの再放送を見る という流れが定着しています。
ストーリーを確認した上で再度見ると「ああそうだったのか」と新たな発見が
あります。
大河ドラマ【鎌倉殿の13人】第17話「助命と宿命」が2022年(令和4年)5月1日に放送されました。世帯平均視聴率が12・5%で前回から0・4ポイント減。
今回もなかなかすさまじい展開でした。
それでは第17話「助命と宿命」のあらすじを見て見ましょう
(鎌倉殿の13人第17話「助命と宿命」あらすじ)
【曽我兄弟の仇討ちの伏線】
工藤祐経が何かいい職がないかと、義時のもとにやってきたのです。でも、この人さえないんですよねえ・・
工藤祐経は、伊東祐親の長男・河津祐泰(=八重の兄)を殺害したたため、その息子たち=曽我兄弟からは憎まれ石を投げつけられています。
これは、のちの曽我兄弟の敵討ちの伏線ですね。
【義経 検非違使に任命】
都では、木曽義仲との戦い、そして平氏との戦いで手柄を挙げた義経が後白河法皇と
面会します。
特に平家との戦いでは「鵯を馬に乗って駆け降りた」という話に後白河法皇の御所は
盛り上がります。
戦奉行の梶原景時は「鵯越を馬に乗って下ったのでない」と言いますが、義経は「歴史はそうやって作られていくんだ。」と応えます。まあ、いい加減と言うか、調子が良いというか。。これはうまくいっている時はいいですが。。
頼朝の推挙はありませんが、後白河法皇は「頼朝は忘れて良い」と伝えます。
この検非違使任官が後々大きな問題となります・・
義経任官の前祝いの宴の席で、義経の前に1人の白拍子と遭遇します。静御前です。
一方で、鎌倉では源義経と比企能員の娘との婚姻が進められます。
【義仲の嫡男・義高を殺害しろ!】
その頃、義時は範頼とともに戦勝報告のため鎌倉へ帰っていました。
この席で頼朝は、義仲の嫡男・義高について義時に「3日やろう。義高を討て!」と
命令します。
人質として鎌倉に来ている木曽義仲の嫡男・義高は、人柄が良く、御家人たちとも良好な関係、さらに政子や義高の許嫁の大姫も慕っています。そこで義時は、なんとか義高を助けてやりたい。しかし、頼朝には逆らうことはできない・・そんな気持ちでした。
一方、頼朝は、源頼朝は「人を治めるには、鬼にならねばならぬ時もある。」と言い放ちます。
【政子の思い】
頼朝の正室・政子は、義高が殺されないようと頼朝に命乞いをします。義高は単なる
人質ではなく大姫が慕っているからです。
しかし頼朝は、自身の体験を持ち出します。父を平家に殺された恨みは20年経っても消えず、生き残った遺児たちがこうして打倒平氏に立ち上がっている。ここで義高を生かせば、頼朝は親の仇として同じようなことが起こると思っていました。
源頼朝はこう言います。「あやつの恨みは、必ず万寿にふりかかる。今のうちに、その根をたちきっておく必要があるのだ。」。
情におぼれて判断を誤り助命すれば、後日、必ずや復讐を企てるので我が身を滅ぼすことにある‥そういう思いです。
政子は、義高を伊豆山権現にかくまうことを計します。幽閉された義高を脱出させようと集まった面々に義高は「私は、鎌倉殿を決して許しはしない。父・義仲を救わなかった義時の首もとる。私を生かしておいても皆さんのためになりません。お引き取りください」と告げます。
【武田の思い】
その頃、鎌倉の御所には戦勝祝いの名目で武田信義と嫡男・一条忠頼がやってきました。信義は、義仲討伐で武功を立てたにもかかわらず恩賞がなかったことで不満を抱いていました。
その武田の思いを訴えられた頼朝は「どうもこうも、恩賞については、法皇様のおぼし召しにござるゆえ」とのらりくらり・・。
義高が幽閉されていることを知った信義は、彼に会いに行きます。
【亡き父のために生き抜こう・・義高の思い】
捕まって鎌倉に連れていかれた木曽義仲の妾の巴御前が、義時に逢い、義仲が書いた息子・義高への手紙を見せます。
義仲の手紙には「頼朝を敵と思うな」と書かれていました。
義時は巴と政子とともに、義高が監禁されている場所へ向かい義高と面会します。
巴は義高に、「義仲が自分が亡きあとに平家討伐をなせるのは頼朝しかいないので生きて源氏の悲願成就を見届けて欲しいと話していた」と告げます。
この言葉で義高は、父の願いを叶えるために生き延びる決意をし「父のおもい、しかと受け止めた。」と応えます。
そして政子は義高を伊豆山権現に逃げる準備を始めます。
【武田と義高】
やがて、武田信義と嫡男・忠頼が義高の監禁場所にやってきます。
信義は義高に「ともに頼朝を倒そう。」と誘いますが義高は動じず、こう言います。「父は鎌倉殿を恨むなと書きました。お引き取りください」
でも、思うに義高は真面目過ぎるんだよなあア、ここで武田と手を結ぶという選択肢もあったのではないかなあ・・
【義高脱出】
信義と忠頼が幽閉中の義高に会っていたことが頼朝にわかり、警護が厳しくなります。1184年4月21日、頼朝の異母弟の全成が頼朝になりすまして義高の監禁部屋に入り、義高を女装させて幽閉先を脱出させます。
この義高脱出劇には信濃国から義高につき従ってきた海野幸氏も絡んできます。
幸氏は、御所から脱出した義高の影武者として身代わりになります。ちなみにこの海野幸氏は、わずか12歳ながらで身代わりになった忠義を高く評価され、義高の死後は御家人として召し抱えられます。頼朝上洛の際は、流鏑馬で東国の代表者となり「弓馬四天王」と称されます。また曽我兄弟の敵討ちでは頼朝を守っています。
【義高無念】
やがて、義高が監禁場所からいなくなったことがわかります。頼朝は激怒し「見つけ次第、首をはねよ!」と叫びます。
一度は政子たちが用意した避難場所に身を寄せた義高ですが「義時を信じることができない。鎌倉は恐ろしいところです。」と書置きして、かくまわれていた場所から脱出し西の信濃へと逃げてしまいます。
ああ、この判断が。。義高は故郷の信濃国を目指して逃亡する途中の1184年4月26日、藤内光澄に見つかってしまいます。そこで義高は相手を切ろうと刀を抜こうとしますが、刀に大姫の鞠をくくりつけていたため刀をぬくことが出来ずに殺されてしまいます。享年12。
【義高の許嫁・大姫の思い】
一方、鎌倉の御所では頼朝の娘・大姫(6才)が小刀を喉元に突き付けて、「冠者殿(=義高)がいなくなったら私は死にます。」と義高の助命懇願をします。
「こんなことさせるな!」と頼朝は政子を叱りますが、政子は「あなたがさせているのです」と! このやり取りは緊迫しています。
頼朝は「わしの負けじゃ。父が悪かった」と折れて、義高を殺すのを中止するように
命じます。ここで政子は頼朝がウソをつかないように一筆書かせる。まあ、なんとしっかりしたことか!!
これを見ていた義時は、御家人たちに義高を殺さぬように通達しますが…。
そのとき、藤内光澄(とうない・みつずみ)が首桶を持って鎌倉殿の元へ到着します。
ああ、なんというタイミング・・・
状況を察した義時は大姫をその場所から離れさせます。
光澄は「謀反人、源義高。藤内光澄が討ち取りました!」と報告。ああ、何たることよ!!大姫の決死の覚悟で、義高の助命に成功し頼朝に一筆書かせ、義高生存か……と思わせておいたのに・・・・。頼朝の命令が間に合いませんでした。
もし義高が当初の予定通り脱走せずに伊豆山権現に匿われていれば、この頼朝の一筆が間に合ったかも知れないのに!!うーん
義高斬首の知らせを聞いて頼朝はこう言います「これは天命ぞ」
義高が討取られたことに対し怒り心頭の政子は「断じて許しません」と声をあげます。
義高の死を知った大姫は、その後、悲しみの病床に伏せメンタルがやられ不幸な人生を歩みます。
【大姫の不幸な人生については下をクリック】
【なんで殺されるの??理不尽なり!】
同年6月27日、頼朝の命で、義時は木曽義仲の嫡男・義高を討ち取った藤内光澄を斬首します。これひどいですよね!!藤内光澄にとっては、まさに???誠に理不尽でしょうね。殺せと命じられたのでその命令に従い殺しただけなのに、なんで打ち首なのかと大疑問でしょうね
最後に光澄が「なぜだ!」と叫ぶのは、その通りです。命令通りに動き、手柄を立てたはずなのに、斬り捨てられてしまった。ひどい!!
さらに頼朝の命で、義時は頼朝に謀反を企んだとして武田信義の嫡男・忠頼も殺害します。
嫡男を殺された武田信義のもとに義時が訪れ、信義は頼朝に逆らわないことの起請文を書かされます。
信義は悔しくてこう叫びます。「お前たちはおかしい。謀反とは何か!謀反とは家人に主人に対して行うこと。わしは頼朝を主人と思ったことはないわ!」。悲しい叫びです。
ここで、武田の顔にだけ光が当たり表情がわかりますが、対する義時は顔が暗く表情が見れません。凄い演出です。
一方政子は、自分が発した「断じて許しません」という言葉がきっかけで、光澄が打ち首になったことを義時から聞かされ驚きます。
そして義時は、御台所の発言の重さを政子に伝え、「かつての我らではないのです」と言います。
結果として色んな人の命を奪うことになった北条義時・・・義時は赤ん坊を抱きながら「父を許してくれ」と泣くのでした。
(おわり)
うーん、、重い、重い、、重すぎる・・・。
いや嗚呼、凄まじい展開、この後味の悪さ・・・。
第15話(4月17日)の上総広常、第16話(4月24日)の義仲に続く3週連続の殺害、
しかも今回は3人でした。
(壇ノ浦放送を前に安徳天皇を偲ぶお祭りと
安徳天皇が沈んだ壇ノ浦に行ってきました)
次回はいよいよ源平合戦最終章・壇之浦の戦い。
その放送を前に、おっさんは2022年(令和4年)5月3日(火・祝)壇ノ浦に近い山口県下関市にある安徳天皇を祀る赤間神宮で、安徳天皇を偲ぶ先帝祭・本殿祭があったので参列し、さらに平家一門の墓、安徳天皇陵、壇ノ浦などにも足を延ばしてきました。
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