日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

MENU

大河ドラマ「どうする家康」ネタバレあらすじ第3話「三河平定戦」

大河ドラマ「どうする家康」
第3話「三河平定戦」です。
元康が大きな決断を迫られます。

第3回の視聴率は14.8%で前回より0.5%マイナスになりました。それでは、あらすじを見ていきましょう。

 

(織田と戦うぞ!!) 

松平元康のところに今川氏真から書状が届いていました。

「岡崎に留まり、織田軍を倒して三河を平定したら駿府に帰ってこい」という内容でした。

元康は「自分たちの功績を認められた、これで駿府に帰れるし氏真の側近になれる」と喜びますが、石川数正に「我々だけで三河を平定しろというのか?」と詰め寄られます。
戦となれば武器も軍資金も必要になります。軍資金がない、と嘆くと、鳥居忠吉が、
元康が城主になったときのために準備をして貯めておいた武器がありました。これで織田信長とも戦うことができると家臣たちの士気が一気に高まります。

(水野信元)

まず狙うのは、母の兄=元康の叔父でもある水野信元です。
水野信元は、今川を裏切り、織田に付いた裏切り者ですが親戚でもあります。
元康は、本多忠勝と本多忠真を呼び作戦を練ります。この席で本多忠勝は元康に「実の母=於大の方の兄だが首を取ってもいいのか」とたずねます。元康はもともと信元が嫌いだったので、快諾します。

信元の刈谷城を襲撃する前に、元康たちは腹ごしらえをします。夏目広次は足軽たちの名簿を作り元康は瀬名に、氏真の命を成し遂げたらもうすぐ駿府に帰ると手紙を書きます。

 

(織田につきなさい)

1560年7月下旬、
元康は刈谷城攻めを行います。
しかし攻め込まれる側の水野信元は、同盟相手の久松永家と城内でサイコロ賭博を楽しんでいました。のんきなもんです。
信元は、元康は戦う相手が誰なのかわかっていないと見下します。

刈谷城を攻める元康軍の背後には織田軍が迫っていました。信元軍と織田軍に挟まれた元康軍は80余名の犠牲者を出して敗走します。

戦後、水野信元は信長に会いに尾張の清須城へ行きました。信長は、銃をかまえて水野信元に「狩りの肝心な役目は獲物を追い込むこと。兎(=元康)をしかと自分の前に追い込め」と命じます。

 

(吉良義昭が援軍に)

ある日、今川義元が、「やり直しじゃ、駿府に帰ろう」と言い、その通りに駿府に戻ると瀬名が出迎えてくれる。なんと嬉しいひととき・・と思ったら夢の話でした。元康が目を覚ましたのは岡崎城でした。

駿府では、亀姫が生まれ、その可愛さで盛り上がります。瀬名は、女達には皆の夫たちも戻ってくるので、を綺麗な着物で出迎えようと言い、ハギレで着物を作るようにすすめます。

元康は氏真に援軍を求める書状を送ります。しかし義元の死後、氏真も各地の対応に忙しく援軍を送る余力がありません。

そんなとき今川勢から、吉良義昭が加勢に訪れます。吉良が到着して、一同で評定をひらきます。ここで大久保忠世の作戦を採用しますが松平兵は、100人以上の死者をだし敗走しました。大敗です。

 

(家臣の中で割れる意見)

その後、水野信元から書状が送られてきます。織田方につくように迫る内容でした。元康は怒りそれを破り捨てます。
ここで、何かいい案はないかとみなが思案する中、家来たちの乱闘が起きます。
本多忠勝が今川から兵がこないので織田方につくべきだといったので鳥居元忠平岩親吉と言い争いになったのです。

石川数正は「次負ければ、お家は破滅。今川殿も立ち直る気配はない。軍用金も底をつきはじめている」と織田につくように勧めます。

妻子のいる三河衆を見捨てることができないので織田に着くことはできないと嘆く元康に、酒井忠継は、今川と懇意にしている武田に助けを求めることを提案します。しかし信玄は、元康が今川を飛び越えて、武田にお願いしたことに対し「今川の家臣のくせに身の程知らずだ」と相手にしません。

 

(母の教え)
元康は水野信元と対面します。信元は、元康が信長に頭を下げればうまくとりなしてやるといいます。そして「俺を殺したければ殺れ、外で待たせている者が死ぬ」と言い、外に待たしていた人を紹介します。

その人は、元康の実の母の於大の方でした。

再会を喜ぶ母子、さらに耳元で母は「今川と手をお切りなさけ。今川はもうおしまいです。信長様には勝てません。信長は松平と対等に手を結び三河を任せるといってくれている、ありがたい話じゃないか、」と信長と同盟になることをささやきます。

 

元康が、妻子も駿府にいると言うと、母は「主君たるもの、家臣と国のためなら己の妻子をお捨てなされ。そなたの父もかつて尾張におった、そなたを見捨てました。恨んでおいでか?私は、立派な判断だと思います。主君たるもの妻や子供を平気で捨てなはれ。」と言います。

元康は、冷酷なことを言う於大の方を追い出します。去り際に「そなたを助けておる吉良義昭殿攻めよ。それが信長さまへの返事になる。」と告げます。

そのとき、瀬名から帰りを待ち侘びているという手紙が届きます。

 

(城下)

数日後、酒井忠次が元康を連れ城下に出ます。今年は義元が死んで厳しい取り立てがなく、豊かな暮らしができると民は喜んでいます。ここで外を出歩くことで民が何を望んでいるかの実情を知ります。

忠次は「今川のために戦えと言っても、兵が集まりません。みなそれほどひもじい思いをしてきたのです。まことに恐れ多いですが、我ら三河衆はとうの昔に今川を見捨てております。」と訴えます。

忠次は元康に今川と縁を切ることを懇願します。しかし元康は妻子がいる駿府に帰ると引きません。
ついに忠次は願いが叶わぬなら手打ちにしてくれと言い、元康が切ろうとして刀を構えると数正もいっしょに手打ちにしてくれ、決断を!と並んで土下座をします。元康としては今川に恩がありますが、他の者にとっては岡崎のほうが大事です。元康と家臣たちのズレです。

こうなると元康はもう今川と縁を切るしかありませんでした。

 

(今川と縁を切る)

数日後、元康軍は援軍に来てくれた吉良義昭の東条城に攻め込みました。

元康は今川氏真に織田方についたことを書状で知らせました。元康が今川を見限ったことを瀬名はまだ知りませんが氏真は元康の行為に対し三河衆の人たちを串刺しにします。家康が周囲の意見を聞き入れ織田方につくことを決めたため駿府にいる三河の者が処刑されました。元康は岡崎城の主ですから判断を迫られましたが、辛い選択になってしまいました。

(つづく)