福岡県北九州市若松区には、
日本海軍の3隻の駆逐艦を並べて作った
軍艦防波堤があります。
そのうち1隻は、第一次世界大戦で地中海に派遣された
100年以上前の駆逐艦「柳」で、
今もその形がわかります。
(軍艦防波堤とは)
軍艦防波堤とは、文字通りに軍艦を利用して作った防波堤のことで、福岡県や青森県
などにあります。
福岡県北九州市若松区と洞海湾内部には、年中強い波風が入り、特に八幡製鉄所への
船舶の運航が困難で困っていました。
そこで、第二次大戦後、「冬月」・「涼月」・「柳」の三隻の駆逐艦が防波堤代わりに沈めました。この3つの船で長さ770mの防波堤のうち約400mを作っています。
(防波堤となった 3隻の駆逐艦)
防波堤となった3つの駆逐艦を見て行きます。
(柳)
北九州若松の軍艦防波堤の中で、今も姿の一部を見ることができる唯一の軍艦が「柳」です。「柳」は、第一次世界大戦で地中海に遠征され、民間船舶の護衛や海難救助などを行いました。
このように自由に触ることもできます。第一次大戦に参加した駆逐艦に触ることができるんですよ!!!
上空から見ると、形がよくわかります。
柳の側面に近いところには 柳の骨組みが確認できます。
柳の艦首部分には主砲の12センチ砲の跡が残っています。
「柳」は、桃型駆逐艦の4番艦として、1917年(大正6年)に建造され、全長は約88メートルです。
下の写真は、1919年(大正8年)12月4日に撮影された地中海遠征記念写真です。
(凉月)
「凉月(すずつき)」は、日本海軍の一等駆逐艦で、13隻ある秋月型駆逐艦の3番艦です。
1942年(昭和17年)12月29日に三菱長崎造船所で竣工し、以後、輸送作戦や護衛任務に従事しました。
涼月は、1945年(昭和20年)4月6日、戦艦大和の海上特攻に参加します。
翌4月7日の坊の岬沖海戦では、大和を含め6隻が沈没します。
下の写真は、凉月乗組員が沖縄特攻時に締めていた鉢巻きです。
しかし、一等駆逐艦の凉月は、この戦いで戦死者57名・負傷者34名を出したものの、
涼月自体は沈没することなく自力で脱出します。
途中、米空母の魚雷攻撃を受けるものの命中せず、4月8日14時30分、長崎の佐世保港に
たどり着きます。
涼月は、他の戦場でも何度も乗り越えた“不死身の駆逐艦”です。
(冬月)
「冬月」は秋月型駆逐艦の8番艦として、1944年(昭和19年)に建造されました。凉月と同じく全長約134メートルで大柄の駆逐艦です。
戦艦大和地ともに沖縄海上特攻に参加しています。この戦いで、大きな被害を受けず、沈没した船の乗組員を救助します。この戦いで行方不明になった「凉月」に「我、冬月、凉月何処にありや」と無線を出しながら佐世保へ帰還しました。その後、日本近海の警戒に当たり、門司港で終戦を迎えました。
(沖縄特攻を生き抜いた「凉月」と「冬月」)
軍艦防波堤の「凉月」と「冬月」の2隻は、1945年(昭和20年)4月の沖縄海上特攻で
大和とともに出撃した戦艦合計9隻の中での駆逐艦で、いずれも戦い抜き生還しました。下の図は海上特攻の時の配置図です。
(戦後は軍艦防波堤に)
「柳」、「凉月」、「冬月」の3つの駆逐艦を使ってできた北九州の軍艦防波堤ですが、やがて時代の流れとともに「冬月」と「涼月」は老朽化し、さらに台風等で壊れてしまったためにコンクリートに埋められてしまい現在、姿が残るのは「柳」だけです。
軍艦防波堤に関しては、北九州市若松区にある軍艦防波堤の史実の保存、
連絡や情報交換等を行う同好の会の軍艦防波堤連絡会があります。
2023年(令和5年)の開催の軍艦防波堤を語る会に参加してきました。👇
<<軍艦防波堤の行き方>>
車で行ってください
住所:福岡県北九州市若松区響町1丁目
戦後、軍艦防波堤となり人々を守っています。