日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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かつて日本1の石炭の港として栄えた若松港 (福岡県北九州市若松区)

 

福岡県北九州市にある若松は、
かつて筑豊炭田から運ばれた石炭が積出しされる
日本一の港でした。

 

筑豊炭田の積み出し港として)

福岡県北九州・・社会の本では必ず出てくる四大工業地帯の1つです。

この北九州市にある若松港、地図を見ると下の場所にあります。

この若松港は、1890年(明治23年)5月に、当時取り扱いが増えてきた石炭などの貨物に対応するため、石炭積み出し港作りを目指し、埋め立てや浚渫(しゅんせつ)、護岸工事などを始めます。

その後、1891年(明治24年)には筑豊興業鉄道により、若松駅直方駅間の鉄道路線が開業します。これにより、筑豊炭田から若松へ鉄道による石炭の輸送が始まり、運ばれる石炭の量が増加します。

そして1898年(明治31年)に若松港が開港。1904年(明治37年)4月 には 若松港が国の特別輸出入港に指定されます。

こうして若松港は筑豊炭田からの石炭を運ぶ港として栄えていきます。

 

若松駅は日本1の取扱量に)

やがて筑豊炭田からの若松に運ばれる石炭の量は、大正期には国内シェアの約 50% を占めるまでになり、若松から日本や世界に輸出されました。

やがて若松駅は、1日の貨物の取扱量が全国の駅の中でトップクラスとなります。

(石炭景気で賑わう若松)

当時石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、若松は石炭景気で賑わいました。

若松南海岸通りには、明治時代や大正時代からの建造物が多く立ち並びました。

 

 

(弁財天上陸場とごんぞう小屋)

その若松南海岸通りの一角に 弁財天上陸場とごんぞう小屋があります。
弁財天上陸場は、石炭の荷揚のに使用されました。隣にある旧ごんぞう小屋は当時の詰所を再現したものです。

 

(弁財天上陸場)

若松南海岸通りの中ほどにある階段式護岸は、1917年(大正 6 年)頃、若松市によって建設され、弁財天上陸場と呼ばれていました。

石段に刻まれた傷、すり減った階段は、日本一の石炭の積出港として栄えた名残です。階段の左右には常夜灯があり、これは1921年(大正 10 年)に地元商店主等により建立されました。


(ごんぞう)

筑豊の炭鉱から若松に集められた石炭は「ごんぞう」と呼ばれた石炭荷役たちによって本船に積み込まれました。

“ ごんぞう ” は明治中頃より増え始め、最盛期の若松港には 4 千人近くが活躍していたといわれています。艀(はしけ)から大型船に石炭を積み替えるこの作業は、体力と技術、忍耐力を要する仕事でした。

 ごんぞうは、「陸仲仕」と「沖仲仕」の2つの種類があったようです。

洞海湾に大型船が入港すると、ロープでひな壇式の足場をつり下げ、ひな壇には、格段2人ずつの ごんぞう が立ち、竹製の籠を使って石炭を運び上げました。
 

この「ごんぞう」というネーミングの由来は、①布で編んだ草鞋のことを「ごんず」といい、それを履いていたことから転化したという説と、②「ごんぞう」という腕力の強い人から出た説などがあります。

(ごんぞう小屋)

ごんぞう小屋は、もともとは、1901年(明治34)年に建設された洞海湾の渡船発着場です。ちょうどこの年は、八幡製鉄所ができた年です。
この小屋は1904年(明治37年)頃から1965年(昭和40年)頃まで、ごんぞうが仕事を待機したり休憩をする場所として利用されました。

ごんぞう小屋は、1996年(平成8年)に、肉体労働で日本の産業の近代化を支えた方たちの功績を後世に伝えようと再現され、内部は無料の資料館になっています。

厳島神社

弁財天上陸場のすぐ向かいには厳島神社があります。

 

<<ごんぞう小屋・弁財天上陸場への行き方>>

JR若松駅から海岸方面に徒歩5分
住所:北九州市若松区本町1丁目14-16

 

日本の近代化の原動力となった石炭。
福岡県北九州市若松は、その石炭でにぎわった町です。