1902年(明治35年)1月30日に日英同盟が締結されます。
この同盟は、欧米との初の対等条約であり、これにより国際列強の仲間入りの大きな
足がかりとなります。
また当時世界一等国だった大英帝国との同盟は日本に大きな自信となります。
(日英同盟とは)
この日英同盟は、イギリスで駐英日本公使・林董(はやし ただす)と英国外相・ランズダウンで調印されました。
内容は、清国における日英両国の権益と朝鮮での日本の権益を守る相互援助が中心で
期間は5年間です。
他国の侵略に関してはそれぞれが適切な措置をとるとなっています。
また日英どちらかが他国と戦争になった場合は中立を守るが、その他の国を第三国が
支援した参戦した場合には、同盟国には参戦義務が生じます。
元々はロシアの満州権益独占に対し独・英・日での三国同盟という形で話しが進んでいましたが、ドイツが途中で離脱し日英二国間の同盟となりました。
当時最強の国・大英帝国との同盟で日本中は大祝がムードとなります。
(風刺画に見る当時の国際関係)
この絵、歴史の教科書でよく見かけますよね。
これは日英同盟が結ばれた頃、日露戦争直前の国際関係を表した風刺絵です。
英国人が日本人に「おいキミ、早く火の中から栗を拾ってきなさい。早くしないとコサック兵がみんな食ってしまうよ」とけしかけています。後ろには米国が様子をうかがっています。
ここで解説すると、栗は朝鮮、栗を焼いているのはロシアで、焼いた栗を拾うように促されている日本は欧米の人に比べ小柄、しかも火の中にある栗を拾うので危険きわまりない状況です。
つまりイギリスが日本を利用している様子です。
日英同盟締結後の1904年(明治37年)2月日露戦争が始まります。
日本海海戦に向けバルチック艦隊はロシアを出港しますが、当時のイギリスは世界中に
植民地を持っていてその近海や港も勢力下に置いていたためバルチック艦隊の動きは
イギリス経由でに日本に伝わりました。
同時にバルチック艦隊は日英同盟の下、英国領の港に入ることを制限され、
そのため石炭・食料・水などの補給がまともにできず、船の整備も不十分でした。
またスエズ運河など主要な運河を通過させずバルチック艦隊は地球半周の大航海を経てようやく日本海に到着し、ここで日本海軍と戦いました。
長旅と整備不調と不満足な補給…バルチック艦隊はこの状態でした。
日本にとって日英同盟は、「世界一流国の大英帝国の後ろ盾」、「フランス参戦の回避」、「対露妨害の強化」といった日露戦争において重要な面を持つことになりました。
(第1次世界大戦と日英同盟)
日英同盟に基づき第一次大戦では、日本は連合国の一員として1914年8月23日に参戦し
1917年1月からドイツおよびオーストリアが無制限潜水艦作戦を開始すると連合国側の艦船の被害が甚大なものになり、イギリスは日本へ、地中海へ駆逐艦の派遣を要請します。
(1923年8月17日 日英同盟失効)
その後、第二次日英同盟(1905年:明治38年)、第3次日英同盟(1911年:明治44年)と継続更新されましたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の時に調印された
四カ国条約で、1923年(大正12年)8月17日に失効します。
・・ということで1月30日は日英同盟が結ばれた日です。