日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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5月5日 風船爆弾で6人死亡 ~唯一の記録に残る風船爆弾による死亡~

 

第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月5日、日本から飛来した風船爆弾アメリカ・オレゴン州で爆発し、
民間人6人が死亡しました。
これは第二次大戦でのアメリカ本土攻撃における
唯一の死亡です。

 

風船爆弾とは)
風船爆弾は、1933年(昭和8年)頃から陸軍登戸研究所で研究が始まり、太平洋戦争中に日本軍が使用した爆撃兵器です。

和紙を蒟蒻糊でつなぎ合わせて作った直径10mの巨大気球の中に水素を充填し、爆弾や焼夷弾のほか高度調整装置などを爆弾を搭載した爆撃兵器です。

風船爆弾アメリカ本土空襲を狙ったもので「ふ号兵器」と言われていました。
風船爆弾は、日本本土から放ち高度1万mまで上げ、そこを流れるジェット気流を利用して、北太平洋を横断させ、およそ2昼夜かけてアメリカ本土上空に到着させ、時限装置で投下する仕組みです。下の写真はアメリカの海岸を飛行する風船爆弾を撮影した
米軍の写真です。

ちなみに「ふ号兵器」が米大陸に行くために利用したジェット気流は、日本の高層気象台の台長・大石和三郎らが世界で初めて発見したものでした。

 

明治節に放球)

1944年(昭和19年)10月25日、参謀総長は大陸指第2253号をもって気球聯隊長に対し、風船爆弾による心理的動揺を主目的とする米国本土攻撃を命じます。
そして明治節にあたる同年11月3日未明に3カ所の基地から同時に風船爆弾を放ちました。

以後1945年(昭和20年)3月まで 千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の海岸にある
基地から、およそ9300個が放たれました。そして少なくとも300個程度が北米大陸
到達したとみられました。
下の写真は、ネバダニクソンで発見された風船爆弾の写真です。大人の人が一緒に映っているので、その大きさがわかると思います。

 

(米大陸唯一の死亡)

1945年5月5日、アメリカ・オレゴン州ブライでピクニック中の民間人6人(妊娠中の女性教師1人と生徒5人)が、木に引っかかっていた風船爆弾の不発弾を触ったところ、
爆発し爆死した例が確認されています。これが風船爆弾による唯一の死亡報告です。
風船爆弾は1945年(昭和20年)3月が最終放球なので、この風船爆弾は冬の間に飛来したものではないかと言われています。

また、別の風船爆弾は、ワシントン州リッチランドにあった原子爆弾用のプルトニウム製造工場であるハンフォード工場の送電線にも引っかかり短い停電を引き起こしています。

風船爆弾による心理的効果は大きく米軍は、この爆弾に細菌兵器や毒ガス兵器が積まれているのではないかと警戒したり、また風船爆弾迎撃対策のためにアメリカ軍が戦闘機部隊を太平洋戦線から呼び戻して西海岸に配置するなど対策に追われたそうです。

 

(八女高等女学校)

気球部の気球部分は、日本各地の高等女学校の女学生が手作業で貼り合わせて作られていました。


その1つが現在も和紙の産地として有名な福岡県八女市です。ここでは、八女高等女学校の女学生が動員され、風船の原紙づくりが 行われていました。

実はこの八女高等女学校は、おっさんの母親(1929年:昭和4年生まれ:健在)の母校で、母の1級上の先輩方が風船爆弾を作成していたそうです。
実際に風船爆弾作っていた人の話を聞く機会がありました。

すでに学校の授業はなく、12時間交代の作業で風船爆弾用の手すき和紙を、蒟蒻糊で二重三重と張り合わせて補強したそうで、そのために指紋が消えたそうです。

 

また、重労働のため大半の女学生が、生理ががとまったそうです。

風船爆弾を張り合わせるのは、素手による作業でしたが、蒟蒻糊の防腐剤として水酸化ナトリウムが使われていたために手荒れにも悩まされていたそうです。

東京の日劇両国国技館、京都では祇園甲部歌舞練場、大阪では道頓堀の映画館や劇場などが接収され風船爆弾の製造工場にあり、製造の最終行程である充填した気体が漏れないことを確認する検査が行われました。
下の写真を見ますと風船爆弾の大きさがわかると思います。

 

アメリカ本土を攻撃した3つの例)

風船爆弾を含め日本軍によるアメリカ本土攻撃は、砲撃と空襲をあわせて3回あります。

 

(砲撃)

まず最初は、真珠湾攻撃から約3カ月後の1942(昭和17)年2月24日(現地時間23日)、日本海軍の潜水艦「伊17」がカリフォルニア州サンタバーバラにあるエルウッド石油製油所を沖合約4キロの位置から14センチ砲を計17発、約20分にわたって砲撃し、砲弾のいくつかは命中しました。

 

その約4カ月後の6月20日に、「伊26」潜水艦がカナダ本土のバンクーバー島にあるカナダ軍の無線羅針局を、翌21日に「伊25」潜水艦がオレゴン州のフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃しています。

 

(空襲)

また、同年9月9日と29日には「伊25」の「艦載機:零式小型水上偵察機オレゴン州の森林地帯へ焼夷弾を投下し、アメリカ本土空襲も行っています。

これはアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による米本土空襲でした。

この2度にわたるアメリカ本土空襲に参加したパイロットの 藤田信雄飛曹長は、1962年(昭和37年)に、オレゴン州ブルッキングス市から招待を受け渡米します。

ここで「アメリカの歴史上で唯一アメリカ本土を空襲した敵軍のパイロット」として

大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号を贈られました。

アメリカ本土を爆撃した唯一の藤田飛曹長について書かれた本】 

 

風船爆弾は、日本人の知恵と工夫で作られ、太平洋を渡り米国本土に渡りました。

・・・ということで5月5日は、
風船爆弾で確認された唯一の死亡事故が発生した日です。