1945年(昭和20年)9月2日(日)、
東京湾の横須賀沖に停泊していた
アメリカの戦艦・ミズーリ号の船上で、
太平洋戦争の降伏文書の調印式が行われました。
(降伏文書調印)
1941年(昭和16年12月8日)から始まり3年8か月続いた太平洋戦争の終結をしめす降伏文書調印式が、東京湾横須賀沖に浮かんだアメリカ海軍の戦艦・ミズーリ号の上で行われました。
日本からは重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長、随員9人の11人が出席しました。
なお皇室からの出席者はいませんでした。
降伏文書に調印したのは、まず最初に日本側からで、外相の重光葵(日本全権)と陸軍参謀総長の梅津美治郎(大本営全権)の順番でした。
最初に降伏文書に、日本全権の重光葵が調印しました。
一方、連合国側は 、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサーが最初に調印し、その後、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表が署名しました。
下の写真は、調印をするダグラス・マッカーサー陸軍元帥です。
【敗戦国の悲しさ。なめられ馬鹿にされた日本】
この降伏文書調印式は、国と国との正当な国際条約の調印でありながら、実に敗戦国の日本に失礼な態度が満載です。
1つ1つ見ていきましょう。
【1、国際的な調印の場としては見下した馬鹿にした扱い】
調印式というオフィシャルの席なのですが、米兵の多くが船の上から足を投げだしたりして調印の様子を上から見下ろしています。
国際的な国と国との条約の場にこの態度!
負けた国ということだけで敗戦国日本に対しすごく失礼なふるまい、さらしものです。
足を投げ出して見下ろす態度、、行儀悪すぎです!
【2、敗者を恥さらし!!降伏文書調印を世界中にラジオ中継】
連合国は、敗戦国日本の降伏文書調印の様子をラジオ中継して世界中にさらさしました。
23分間に渡って「日本が負けたよ」と全世界に生中継する恥さらし行為です。
日露戦争の時、乃木将軍が、敗れたロシアのステッセルとの水師営で行った会見や東郷平八郎が日本海海戦で敗れ捕虜になったロジェストウェンスキーを見舞ったときに、
それぞれ両者は敗者をいたわる武士道精神を見せましたが、それとは逆です。
完全にナメています。
【水師営での乃木将軍の敗者をいたわる素晴らしい武士道は下をクリック】
【日本海海戦での統合元帥の武士道は下をクリックして御覧下さい】
【3、署名に使った5本のペン】
日本の重光葵と梅津美治郎陸軍大将が調印した後、マッカーサー元帥は、連合国軍代表として、この日本降伏文書に調印をします。
調印のときマッカーサー元帥は調印の時、後ろを向き、その人にペンを渡しています。
この調印式では、マッカーサーは5本のペンを取り出して、交代で文章に調印しているのです。
そして、調印で使用した5本のペンのうち、最初の1本を、ジョナサン・ウェインライト中将に渡しました。
2本目のペンは英国極東軍司令官だったアーサー・パーシバル中将に贈られました。
パーシバルは、日本軍によってのシンガポールが陥落したの時の責任者で、この時は、英国史上最大規模の13万人が降伏しました。
3本目はマッカーサーの母校であるウェストポイント陸軍士官学校、4本目はアナポリス海軍兵学校に贈り、最後の1本は妻ジェーン用にとしました。
つまり降伏文書に使用したペンは、マッカーサーの個人的な記念品に利用されたのです。
【4、いい加減な調印!間違えて書いたままの「降伏文書」は日本が所有】
マッカーサー元帥の後、各国の代表が調印するのですが、これがまた問題です。
この時に調印された「降伏文書」は2通あり、1通は、ワシントンの国立公文書館、もう1通は東京・麻布台にある外交史料館にそれぞれ保管されています。
しかし、日本が保存する「降伏文書」とアメリカが保存する「降伏文書」は異なるものです。そして、日本のは乱雑で、失敗作です。
実は、最初に作られた調印文書は、カナダ代表のムーア・ゴスグローブが指定された
署名欄の場所を間違えて、次のフランス代表の欄に署名してしまったのです。
それ以後、フランス代表、オランダ代表も次の国の欄に書いたために、最後のニュージーランド代表は、書く場所がなくなり、欄外に署名しています。
そのため、なんとも不格好な「降伏文書」となりました。
下の写真を見ますと たしかに 署名されず空白の部分があるのがわかります。
空白の署名の部分を拡大して見てみると、確かに書かれていませんね。
この不格好な調印文書が日本用となりました。
一方、この後に再度署名されたもう1通の降伏文書は、全員が指定された欄に書いていて綺麗な文書で、アメリカが保管しています。
敗戦国日本は、この失敗作の書き間違えた降伏文書を持たされたのです。
敗戦国とはいえ、ひどい扱いです。
この調印式は、戦勝国の中でも中心となったアメリカのイベントであり、セレモニーで
ありました。そのためアメリカが数々の演出をしています。
降伏文書が調印されたミズーリ号には2枚の合衆国星条旗が掲げられました。
1枚目は、1941年(昭和16年)開戦時の真珠湾攻撃を受けた時に、ワシントンのホワイトハウスに掲げられていた48星の「星条旗」です。わざわざ首都・ワシントンから運び込んだそうです。
もう1枚は、1853年に初めてアメリカ軍が日本に来た時、すなわりペリー艦隊の旗艦である蒸気外輪フリゲート艦サスケハナ号が掲げていた31の星が描かれた「星条旗」です。
こ31星の星条旗は、マッカーサーの要望で、保管されていたメリーランドのアナポリス海軍士官学校博物館から取り寄せ、額にいれたまま掲げました。
ダグラス・マッカーサーは、ミズーリ号の調印式に「アメリカの歴史的な出来事」ということで2つの意味ある星条旗を持ち込んで掲げたわけです。
しかし、会場には、日本や署名する他の連合国の国旗も一切掲げられませんでした。
この不公平さ!!
②、ミズーリ号が停泊した位置
マッカーサーは、ミズーリ号が停泊した場所は、1854年に日本とアメリカの最初の条約・日米和親条約が締結されたときに、船上で調印をしたアメリカ軍の「ポーハタン」号が停泊した時と、同じ緯度・経度の場所に停泊させています。
さらに、ミズーリ号の上空付近では盛大な戦勝祝賀飛行まで行っています。負けた相手がいるにもかかわらず、戦勝祝賀飛行ですよ!!この神経!!
このように、敗戦国・日本は見下されバカにされ、
様々な失礼な行為を取られたわけです。
有史以来、日本が完全に他国との戦闘に敗れ、
敗北を正式に承認した日、
それが1945年(昭和20年)9月2日でした。
日本は、この日から初めて外国の占領下になります。