大阪のシンボル・大阪城。
この広大な大阪城の敷地内にある大阪城公園に、1つの石碑がひっそりとあります。
この石碑には「砲兵工廠跡」(ほうへい こうしょう あと)と刻まれています。
「大阪砲兵工廠」(おおさか ほうへい こうしょう)は、かつて大阪市の大阪城三の丸米倉跡に設立された陸軍の官営軍需工場です。
アジア最大規模で火砲・洗車や弾薬を製造していました。
1914年(大正3年)に刊行された「大阪写真帖」に掲載されていた大阪砲兵工廠。
(国立国会図書館ウェブサイトより)
(近代国家を目指すために大村益次郎が発案)
この大阪砲兵工廠の建設は、陸軍の基礎を作ったといわれる兵部大輔の大村益次郎が
発案しました。
発足したばかりの新政府にとっては、軍備の西欧化および近代化、さらに軍事兵器を
国内で生産できるようにな体制を確立する事は最優先事項の1つでした。
そして1870年(明治3年)4月13日に、大坂城の青屋口門内中仕切元番所を仮庁として
事務を開始しました。
この大阪砲兵工廠は、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点でもありました。
敗戦直前は約36万坪(甲子園球場約30面分)の敷地に、200近い軍需工場があり
6万8千人が働く、大工場群でした。
ちなみに大村益次郎の像がある東京の靖国神社には、青銅製の第二鳥居があります。
これは、1887年(明治20年)にここ大阪砲兵工廠で鋳造されたもので、青銅製鳥居としては、日本一の大きさを誇っています。
下の写真の鳥居がソレです。
(終戦で75年の歴史に幕)
終戦の前日の8月14日に大規模な空襲を受け、工廠は全滅に近い状況になり、機能しなくなります。そして翌日の終戦で75年の歴史に幕を閉じます。
なお、現在ある石碑は、大阪廠友会が1959年(昭和34年)に建てた記念碑で、元々は昭和20年8月14日の大阪大空襲で最大の犠牲者を出した第三旋工場跡に建てられていました。
しかし、1983年(昭和58年)に大阪城公園が完成した後に現在の場所に移されました。
<<大阪砲兵工廠石碑への行き方>>
大阪城ホール近くの南西側。大阪城ホールから大阪城のお堀に向かって歩くと左側にあります。