(出典:「東京景色写真版」(1893年・明治26年刊行):国会図書館デジタルアーカイブスhttps://www.ndl.go.jp/scenery/data/39/)
1890年(明治23年)年11月11日、
東京・浅草に「雲を凌ぐほど高い」という意味を持った
凌雲閣が開業します。
(出典:「東京景色写真版」(1893年・明治26年刊行):国会図書館デジタルアーカイブスhttps://www.ndl.go.jp/scenery/data/38/)
(日本1の高さの建造物・凌雲閣)
凌雲閣は高さは約52メートルで、明治時代、日本で最も高かった建造物です。その展望台からは街並みや山々を一望できました。なお「凌雲閣」は同じ名前の建物が当時2つありました。1つは、1889年(明治22年)年に大阪に建てられた高さ39m・9階建てのもの。もう1つは、1890年(明治23年)に浅草に建てられています。
(髙い場所からの眺望ブームを背景に)
1880年代(明治20年前後)は、高い場所からの眺望を売り物にした建物が、大阪や東京に次々と作られ、ブームになっていました。
さらに凌雲閣ができる数ヶ月前の1890年(明治23年)年の3月から7月にかけて、上野で開催された「第三回内国勧業博覧会」に来る客を獲得しようと、建てられたのではないかと考えられています。
そしてパリのエッフェル塔完成の翌年にあたる1890年(明治23年)11月11日、東京都浅草区千束町2-38に高さ52メートルの12階建ての塔「凌雲閣」が開業しました。
凌雲閣は、上から見ると八角形になっていて、1〜10階はレンガ造りで売店が並び、11〜12階は木造で景色を眺める展望室がありました。
(出典:「最新東京名所写真帖」(1909年・明治42年刊行):国立国会図書館デジタルアーカイブスhttps://www.ndl.go.jp/scenery/data/32/)
(ハイカラでモダンな建物)
凌雲閣の入場料は大人8銭、子供4銭で、ちなみにそばの値段が1銭〜2銭です。展望室には30倍の望遠鏡が設置され、使用料金は1銭でした。
「凌雲閣」は「雲を凌ぐほど高い」という意味です。また「十二階」とも呼ばれていました。
12階建てというと今では低いイメージを持つかも知れませんが、明治の半ばの当時では、上から見物ができる高い建物はほとんどないため、12階から一望できる凌雲閣は大人気でした。また凌雲閣は、日本初の電動エレベーターや電灯、電話設備などを備えた建物でした。
(出典:「東京風景」(1911年・明治44年刊行):国立国会図書館デジタルアーカイブスhttps://www.ndl.go.jp/scenery/data/30/)
(何が見えたか)
当時、日本で1番高かったこの建物の眺望室からは、東京の街並みや富士山や伊豆の火山群、足柄、箱根などを一望できたそうです。
また、展望室に設置されている望遠鏡を使い、浅草の隣の台東区・千束にある「吉原遊廓」の遊女をのぞき見しようとする人もいたそうです。おいおい!!
(相次ぐ不運)
しかし、凌雲閣は次第に客足が途絶え赤字が続きで苦しい経営となります。
さらに1894年(明治27年)6月20日におきた明治東京地震で建物に亀裂が入り、「倒壊したら危険だから取り壊したらどうか??」という議論が持ち上がりました。
また1909年(明治42年)には、3人が凌雲閣から身投げをします。
さらに、この頃には凌雲閣のふもとには、飲み屋を装って私娼をあっせんする「銘酒屋」と呼ばれる店が徐々に増えていき、風紀が乱れていきます。
(終焉)
1923年(大正12年)9月1日に、関東大震災が起き、首都東京は壊滅的打撃を受けます。この地震で、凌雲閣は、8階から上の部分が崩れ展望台にいた10数人の観光客が命を落とします。やがて内部から火災がおき凌雲閣は燃え上がりました。
そして9月23日には、倒壊の危険があるとして、陸軍の工兵隊によって爆破解体されました。こうして明治から大正にかけて存在した凌雲閣は33年の歴史に幕を閉じました。
・・・ということで11月11日は
当時一番高い建物となった浅草凌雲閣が誕生した日です。