日本三大学府の1つと言われた長州藩萩の明倫館、
立派な木造の門です。
(家臣子弟教育の為に)
萩の藩校である明倫館は、1719年に5代藩主の毛利吉元が家臣の子弟教育のために萩城三の丸に開いた藩校です。
この明倫館は、江戸時代に全国で300近くあった藩校のうち12番目に出来たものです。940坪の敷地内に、孔子、孟子などの木主を納めた大成殿を中心に配置され、左右に剣術場、槍術場、砲術場などの武道場が館の外周を形成していました。
明倫館は、設備、教育内容ともに全国でも有数の藩校とされ、移転するまでの130年間、ここで藩政を担う藩士育成のための教育が行われていた。
ここでは、1840年に、当時11才の吉田松陰が、藩主の毛利敬親に「武教全書」の御前講義を行っています。
その後、明倫館は1849年に城下の中心地へと移転し、その規模を拡大しました。
約1万5千坪(=約5万㎡)もの敷地内には、宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた漢学中心の初等・高等の教育施設があり、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、その後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられていました。広大な学習場です。
そして1867年に廃館になるまで、合計で150年近く藩校としての教育が行ない、ここから幕末の長州藩の中の人材を育成するなどの大きな役割を果たしました。
(明倫館の正門)
現在見ることができるのは、藩校明倫館の遺構で、明倫館の正門として建てられたものです。
門は切妻造り本瓦葺きで桁行3.94m、梁間3.15mの一間一戸の四脚門で、左右に袖が
あり、潜門がついています。
この門は、藩主が聖廟を拝する春秋の「釈菜(せきさい)」(=孔子祭)や公式行事以外は開かれませんでした。
現在、敷地内には、1935年(昭和10年)に建てられた木造2階建ての旧明倫小学校本館校舎があります。
<<明倫館への行き方>>
萩循環まぁーるバス(西回り・東回り)「萩・明倫センター」バス停より徒歩1分
住所:山口県萩市大字江向
明倫館は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、
日本三大学府の一つと称されました。