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大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレ,あらすじ 45話「二人のプリンス」

1年を通して放送する大河ドラマ。いよいよ終盤・もうすぐ終わりです。
45話「二人のプリンス」。世帯平均視聴率は11、6%でした。
さっそく、ストーリーを見ていきましょう。

(秀頼が気になる)
家康は将軍職を息子の秀忠に譲って大御所となり、駿府城を居城とします。
その家康が気になるのが、豊臣秀吉の息子の秀頼です。秀頼は大坂城で暮らし、立派に成長しています。
こうなると、これから年老いていく家康と成長していく秀頼・・と言う構図になります。

その秀頼がいる大阪では関ケ原で敗れて牢人となった者たちを大勢囲い込み、武器を集めるなど戦に備えた動きが起きていました。世間では、徳川と豊臣がぶつかるという噂で持ちきりです。

 

そんな中、将軍・秀忠と、老中となった本多正信駿府城にやってきました。

秀忠は、秀頼の存在がうっとおしくて仕方ありません。いつ秀頼に天下を取られるかと思うと気が気ではありません。
本多正純も、「徳川が上で豊臣が下」ということ明確にすべきだと主張します。

しかし、秀頼の母の淀君は「秀頼が成長するまで天下を家康に預ける」と家康に伝えていますので、いつ「天下を秀頼に返して」と言ってくるかわかりません。

家康は「太閤というお人は、今も多くの者の心に生きておる。」と言い、力ずくで太閤・秀吉の息子・秀頼を押せつければ、人々の怒りが徳川に向くことを恐れます。

一方、正信は、上下関係ではなく、「豊臣は武家ではなく公家ってことにしちまう。公家ならば城だの武力だの持つべきではありませぬな。豊臣と徳川が協力し合い手を取り合っている」と世にアピールすることが重要だと言います。

そこで、天皇譲位の儀式の際に、秀頼を二条城に招き、家康との顔合わせの席で上座に座らせ、「天下の政務を執るのは、将軍である徳川。豊臣は公家として尊重し、決して無下にはせぬ、と示す」と言う作戦を考えます。
この二条城の会談には秀吉の未亡人の寧々に間に立って調整してもらいました。

 

寧々に仲立ちを頼む家康だが、茶々や大野修理は猛烈に反対します。
しかし、加藤清正らの説得により会談に参加することにしました。


(二条城の会談)
1611年3月28日、秀頼は二条城に向うため大阪城を出ました。これが秀頼が初めて民衆の前にその姿を現したのです。その秀頼をみようと人々が集まります。豊臣人気は凄まじく大騒ぎです。

二条城の会見が始まりました。

先に家康が二条城の家臣たちと待っていると、秀頼が大勢の家臣をしたがえやってきました。

秀頼は家康をみると「大御所様!わざわざのお出迎え、恐悦至極に存じます。」と笑顔で挨拶をします。
家康は「ようこそおいでくださった。さあ、お入り下され」と促しますが、秀頼は「大御所様からどうぞ」とお互い譲りません。

秀頼は家康に、「我が妻のお祖父様よりも、なぜ私が先に入れましょう」と言い、家康は先に入りました。

中に入ってもお互い譲りません。今度はどちらが上座に座るかで、またまたもめてしまいます。
秀頼は家康を上座に座らせ「大御所様、長らくのご無沙汰、大変ご無礼いたしました。秀頼、心よりお詫び申し上げまする。」と礼儀正しい姿です。
さらに武家として徳川殿と手を携えて、ともに世を支えてまいりましょうと言います。

あれ??豊臣を公家として扱うはずだったのに・・・。

この二条城での会見で、秀頼はその評価を高め、一方、家康は恥知らずの無礼者としての評判を下げました。つまり二条城は、成長した秀頼が、華々しく世に登場する場となったのです。

こうして名声を得た秀頼のもとにますます牢人たちが集まってきます。

 

(家康の思い)
駿府城に戻った家康に、阿茶が「秀頼様というお方、どう御覧になりました?」と尋ねます。家康は、「すずやかで様子の良い・・・秀吉じゃ」と答え、秀頼の存在に警戒します。家康は三浦按針に大筒を用意するように命じます。

居室で関ヶ原の戦いを思い出す家康のもとへ、今川氏真が訪れました。
氏真は、今は家康の庇護のもと、妻と悠々自適に暮らしています。
氏真は「子どもの頃から、木彫りの生き物や、人形を夢中で作っておった」と言い、家康も「あの頃のわしを知っておるのは、今やあなただけじゃ」と言葉を交わします。
さらに氏真は「歌とは、つくづく奥深いものよ。技やしきたりに果てがなく、どこまでやっても極められん」と最近は歌を詠んで生活している心境を伝えます。
氏真は「わしは、かつてお主に『まだ降りるな』と言った。だがまさか、これほどまで長く、降りられぬことになろうとはな。だが、あと少しじゃろう。戦なき世をつくり、我が父(今川義元野村萬斎)の目指した、王道の治世。お主が成してくれ」 と言います。 
家康は「わしには、無理かもしれぬ。成長などしておらん!平気で人を殺せるようになっただけじゃ…。戦なき世など、来ると思うか…。1つ戦が終わっても、新たな戦を求め、集まる者がいる…。戦はなくならん…。わしの生涯は、ずっと、死ぬまで、死ぬまで、死ぬまで戦をし続けて…!」と泣き崩れます。  
氏真は、その家康を抱き締め「家康よ、弟よ。弱音を吐きたい時は、この兄がすべて聞いてやる。そのために来た。お主に助けられた命もあることを忘れるな。本当のお主に、戻れる日もきっと来る」と言い固く誓います。

 

(躍進する秀頼)
一方、秀頼は豊臣の威光を復活させる大事業を進めます。

亡き父。秀吉の悲願であった、火事で焼失した京都の方広寺大仏殿も再興させます。
秀吉の17回忌にあたる年で秀吉が生まれた8月3日に、新たに仏様の魂を入れ込む開眼供養をすることになりました。
その開眼供養は、諸大名や公家、民・百姓までが豊臣の名のもとに集う、盛大な催しとなる予定です。
この盛大な催しに対し「まさにこの日本国の新たなる船出を表すものとなろう。」と淀君はご機嫌です。

その一方で「戦の備えだけは怠るな。もっとも、向こうに戦を仕掛ける度胸があるかは分からぬが。」と、徳川への警戒も忘れていません。

そして「世の人々が自ずと決めるであろう。誰が真の天下人か。」と自信たっぷりにほほえみました。

側近の大野治長(修理)は、老木さえ朽ち果てれば、凡庸な二代目は比べるべくもないと笑います。

 

 (凡庸な二代目)
その凡庸な二代目・秀忠は、秀頼が行う開眼供養をどうにかしてくれと家康に言います

御所柿は一人熟して落ちにけり 木の下にいて拾う秀頼」…父上、この歌に私は出てきてもいない。取るに足らぬ者と思われているのです・・・とマイナス思考です。

 

さらに秀忠は、このままでは豊臣の威光が膨れ上がる、家康が死んで秀頼との戦になったら、自分は負ける自信があるとまで言い出します。
その秀忠に対し家康は「そなたはな、わしの才をよく受け継いでおる。」と言います。

秀忠は、かつての家康と同じで、「弱いこと」、そしてその「弱さを素直に認めることができる」というのです。

秀忠にはずっとその才を大事にして欲しい、そう家康は思いました。

そして家康は「戦を求める者たちに、天下を返すな。武功に生きる者たちの世に戻すな。武をもって治める覇道は、徳をもって治める王道には及ばぬものーそなたこそが、それを成す者と信じておる!わしの志を受け継いでくれ」と言います。

日に日に力を増す秀頼に脅威を感じた家康は徳川秀忠の世に憂いを残さぬためにも、自らの手で豊臣との問題を解決しようと考えます。


方広寺
「国家安康 君臣豊楽」豊臣が大仏を再建した方広寺の鐘に刻まれた、この文言が大きな火種になります。 
慶長19年、1614年の「方広寺鐘銘事件」です。
ちなみにこの文字が刻まれた方広寺の金を見たことがあります。
下をクリックして御覧下さい



ということで、次回は、いよいよ徳川・豊臣の直接対決 大坂の陣 です。

ところで、今回のタイトル「二人のプリンス」ですが、二人 とは 家康と秀頼?それとも家康と氏真??どっちでしょうか??