江戸時代初めの1615年旧暦5月23日に
大坂夏の陣で命を絶った豊臣秀頼(享年23)の
嫡子・国松(8才)が
京都河原で首をはねられました!!
高校などの日本史の教科書には、「大坂夏の陣で豊臣秀吉の子供・秀頼が死亡し豊臣家が滅ぶ」との記述が見られますが、この秀頼には子供達がいました。
しかもその1人は男子なので豊臣家の嫡子にあたります。
(豊臣を根絶やしにしろ!!)
そのあと、徳川方は豊臣方の残党狩りを行っていました。
もし秀頼が妾に産ませた子供がいたら、生き延びて成長して「親の仇!!」と反乱を
起こすのは目に見えていますし、秀吉の血を受け継ぐ者ということで、その人を担ぎ出す連中が現れるかもしれません。
そのため江戸幕府は特に秀頼の妾達が産んだ子供を執拗に探しました。
(幼い男の子と女の子・・)
江戸幕府が調査したところによると秀頼の遺児は長男・国松と7才の娘の2人でした。
国松は秀頼の側室の伊茶が産んだ子供です。
よく考えると国松が生まれた頃、まだ秀頼は15,6才!!今で言うと高校生です。
おいおい!!
(豊臣国松つかまり斬首!わずか8才!)
国松は5月21日に京都伏見でとらえられ監禁されていました。
そして23日に、市中引き回しにされたあとに六丈河原に引き出されます。そこで白装束に身を固めた国松は、首を切られます。このとき8才!!今で言うと小学生!!
この国松の死で豊臣秀吉の男性の血筋は絶えました。
(妹は助かり出家)
一方、もう一人の秀頼の子供=国松の妹(7才)がいましたが、彼女は、秀頼の妻で
あり、同時に家康の孫娘だった千姫の嘆願で命を救われます。
命を助ける条件は、千姫の養女と剃髪し寺に入ることでした。
彼女は出家をし天秀尼(てんしゅうに)と名乗り鎌倉の東慶寺に入りました。
そして1645年2月7日に、37歳で死去します。
これで豊臣秀吉の流れを組む人は完全に消滅したようです。
・・・・ということで5月23日は
豊臣秀頼の嫡子・国松が斬首された日です。