終戦の年・1945年(昭和20年)、
神風特別攻撃隊=神風特攻隊の名前を付けた、
神風特攻後続隊が組織されました。
この部隊は陸海軍が後援した民間部隊で
本土決戦に備え訓練を行い女性も入隊していました。
(本土決戦に備え・・)
神風特攻後続隊は1945年(昭和20年)春に、退役した元陸軍少佐・常岡瀧雄(つねおか たきお:明治32年9月25日福岡市生まれ) が結成した(結成日付には諸説あり)、本土決戦に備えた民間の軍事部隊・私設部隊です。
私設部隊ですが陸海軍が後援し、全国に拠点を置く大規模な組織でした。
(総本部付近には神風が吹いたという伝承がある神社が)
神風特攻後続隊の総本部は、東京板橋の下石神井2丁目にありました。
ちなみに下石神井には、稲荷諏訪合神社という神社があります。
この神社は、小さい神社ですが、元寇のときに神風を起こしたという伝承があるそうです。
神風特攻後続隊が、神風の伝承がある神社がたつ下石神井に本部を置いたことは何かの縁かもしれません。
(神風特攻後続隊 総司令は常岡瀧雄、顧問は菊池武夫)総司令は、設立者の常岡瀧雄、顧問は陸軍中将で男爵の菊池武夫でした。
(総司令・常岡瀧雄)
神風特攻後続隊の総司令である常岡瀧雄は、1899年(明治32年)9月25日に福岡市生まれで、1921年(大正10年)に陸軍士官学校を卒業します。(第三十三期工兵科)。
日中戦争(支那事変)に従事し、功四級金鵄勲章を受章しています。
(陸海軍が後援した神風特攻後続隊)
神風特攻後続隊では男子のみならず、女性も募集しています。
決戦の場合には女性も敵と戦う、あるいは、日本兵が戦場で戦えるように、その支援や準備をするのです。
隊員募集方法は2種類ありました。
「公募」と「推薦」です。
まず「公募」としては新聞広告を利用して隊員を募集していました。
終戦の年の1945年(昭和20年)2月頃から、幾度も全国各地の新聞広告で志願者を募っています。
下は、地方紙に掲載された広告です。
「隊員急募 必勝の大道だ!皇国護持の絶対道だ!唯一残された!陸海軍後援 神風特攻後続隊」の文字が書かれています。
「推薦」では、まず国民学校の校長推薦で高学年の少国民が入隊しています。その中には女子児童もいました。また役場から推薦されたという方もいたそうです。
下が、神風特攻後続隊の入隊志願書です。
神風特攻後続隊の総司令だった常岡瀧雄が1969年(昭和44年)に出した著書「大東亜戦争の敗因と日本の将来」によると、神風特攻後続隊には東京都だけでも約1万人の志願者がいたそうです。
(入隊許証)
入隊した神風特攻後続隊には入隊許可証が授けられました。
下が、神風特攻後続隊の入隊許可証です。
縦18センチ、横12センチ余りで「右者神風特攻後続隊ニ入隊ヲ許可ス」と印刷され、
入隊許可の日付と神風特攻後続隊総司令の常岡瀧雄の名前が書かれ、右上には印が押されています。
入隊許可証の右上には、旭日を描いた神風特攻後続隊のマークと思われる印が押されています。
(4万人が入隊 3分の1は女性)
神風特攻後続隊の総司令だった常岡瀧雄が1969年(昭和44年)に出した著書「大東亜戦争の敗因と日本の将来」によると、神風特攻後続隊の入隊者は全国では4万人で、その中心は20歳以下の青少年でした。そして、その3分の1は女性だったそうです。
「男子は兵隊で戦場に行くが女子は戦場に行けないのが悔しかった。これで私も皇国のために戦場に行き敵を駆逐できる」と喜んで入隊をした女子も多かったそうです。
こうして発足した神風特攻後続隊は、東京本部以外に、名古屋(東海本部:東海4県で約2,000人)や新潟、鹿児島などに拠点があったそうです。
こうしてみると、この神風特攻後続隊は、全国規模の組織であり、その設備や備品、運営などの費用、統率を考えると、陸海軍の後援と言う金銭面を含めた様々な大きな支援があったのではないかと思います。
(訓練内容)
さて、陸海軍の後援をうけた神風特攻後続隊は、どのような活動をしたのでしょうか?
すでにこの時期は「本土決戦」「100年戦争」が叫ばれ、米軍の日本本土上陸や日本本土での地上戦が意識されていました。
神風特攻後続隊もそのような戦局を考えた訓練が繰り広げられていたそうです。
鹿児島では特攻隊が配備された〇〇基地で特攻隊員の乗組員の世話を行っていたという記録があります。
また、都内では、精神力を鍛えるため、炎天下、不動直立の姿勢を1日6時間も続けさせられたという話もありました。
さらに別の場所では、本土決戦に備え、対戦車攻撃用に地雷を抱え体当たりをする訓練を行っていたという話もあります。
(宮城事件にも・・・)
1945年(昭和20年)8月15日、日本は終戦を迎えます。
しかし終戦を認めない一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって、日本降伏を阻止しようと8月14日の深夜から翌15日にかけてクーデターを起こそうと画策します。これは宮城事件、あるいは8・15事件、終戦反対事件などと言います。
神風特攻後続隊の練馬にいた隊員の幾人かは、その動きに賛同し四谷に出向き、そこで待機し指示を待ちます。しかし、宮城事件がクーデター未遂に終わったため、何の動きもなく、結局、15日の夕刻に、帰投命令が下され、練馬の宿舎に戻ります。
(解散後もしばらく秩父に潜伏)
終戦を迎えても、神風特攻後続隊は、練馬の宿舎で寝泊まりを続けていました。
そして9月2日に解散します。
しかし、総司令の常岡瀧雄は、「秩父の山中にこもり、反撃の機会を待つべし!」と
隊員に呼びかけます。それに従い、常岡総司令と男女十数人が、秩父の数か所に潜伏し指示を待ちました。しかし決起の知らせはなく、解散となります。
やがて各地にいた隊員たちも次第に地元に帰るようになり、神風特攻後続隊は自然消滅となります。
神風特攻後続隊は、終戦の年に陸海軍の後援で組織され、女子も所属していました。