江戸時代の1854年、旧暦3月3日、
鎖国状態だった日本が開国します。
江戸時代の大きな出来事であり、
その後の体制や情勢の大きな節目となった
日米和親条約が締結されました。
(開国)
江戸時代の1853年に鎖国をしていた日本にアメリカの黒船が突如訪れ、日本に開国をせまります。
そして、その翌年の1854年、江戸幕府は、現在の横浜開港資料館に応接所を設け約1ヵ月間、アメリカとの協議を行います。
そして、3月31日(旧暦3月3日)、日本とアメリカとの間で、日米和親条約が結ばれます。日米和親条約は、日本側全権は林復斎、アメリカ側全権はマシュー・ペリーです。これによって日本は開国し200年余り続いた鎖国は終了しました。
(開国だが通商ではない)
下の写真は1854年3月31日に署名された日米和親条約の英語版原文です。
日米和親条約は、全12条からなります。
(source:National Archives ARC#299806, Record Group 11)
日米和親条約の第2条には「函館と静岡の下田の2つを開港し、アメリカの船の薪水、
食料や水、石炭を日本で調達する場合に限り入港を許可する」と記述してあり、米国との本格的な貿易を許可したわけではありません。
日本側は「港は開くが通商は拒否」というのです。
(当時の状況)
日米和親条約を結んだアメリカは、太平洋を横断し清などの東アジアとの貿易を行いますが、当時の蒸気船では、航海の途中での水や食料の補給が必要です。
そのための寄港地として日本の港が重要でした。
このような背景から、通商交渉よりも人身保護と補給をメインとした和親条約が締結されました。下田と函館という場所が港として選ばれたのも、補給を考えてです。
アメリカ側が日本に求めていて通商は、4年後の1858年に日米修好通商条約が締結され、横浜が開港されてから本格化します。
(江戸時代の鎖国は、完全に外国との交流を閉ざしたわけではない!)
江戸時代の鎖国について少しお話しします。
鎖国と言うと当時日本は外国との交流をせず自国内だけで交流していたと思う方もいるかもしれません。しかし実情は違います。
1639年,江戸幕府は,鎖国政策のためにポルトガル船の来航を禁止しました。
安土桃山時代から、日本は海外との交流が盛んになりキリスト教の布教が進みますが、この思想がキリストを中心にするものであり、また身分制度など幕府の考え方と反するため,幕府は外国との交際を制限します。
具体的には、日本人の海外渡航を禁じ、外国船の渡航を制限します。
しかし、「鎖国」と呼ばれていた17世紀半ばから19世紀半ばにかけてのこの頃は、江戸幕府は完全に海外との交流を断っていたわけではありません。
例えば、長崎の出島ではオランダ・中国との貿易を認めていますし、朝鮮との交流は対馬、琉球とは薩摩の島津氏を通じて交流しています。
さらに北海道・函館の松前藩はアイヌと貿易していました。
つまり江戸幕府は、鎖国といわれる期間でも長崎、対馬・薩摩・松前の4つの外交窓口を開いていたのです。
(締結の場に建つ石碑)
現在、横浜港大棧橋の入口、開港広場には約1.5mの台石の上に載せられた地球儀の形をした、日米和親条約締結の石碑が設置されています。
地球儀に「日米和親条約調印の地」との文字が刻まれています。
<日米和親条約締結の地への行き方>
・関内駅から徒歩で15分
・日本大通り駅から徒歩で2分
3月3日は日本の歴史の大きな転換期の1つとなる
日米和親条約が結ばれた日です。