日本が明治維新を迎え近代国家へと進んでいた1872年(明治5年)10月4日、群馬県の
南西部のまち富岡市に日本初の本格的な製糸工場である富岡製糸場が作られました。
これは、官営模範工場で工場の敷地は55,391.42㎡という広さを誇りました。
(外貨獲得の大きな力・生糸)
幕末に開国した日本は、1858年、アメリカとの間に日米修好通商条約を結び米国との
貿易が始まります。さらにロシア、イギリス、フランスとも貿易を行うようになります。
外国との本格的な貿易が始まると日本からは生糸やお茶が輸出され、外国からは毛織物、綿織物、武器などが輸入されました。
特に生糸は、明治政府が外貨獲得のエースとして力を注ぎました。
そこで、1872(明治5)年、古くから養蚕が盛んで広い土地と豊かな水に恵まれている富岡の地に官営の製糸場を建て、外国人の技術者を招き、この地で技術の開発や品質の向上、生糸の増産がはかられました。
(血を吸う外国人??)
富岡製糸場の設立指導者には生糸技術者ポール・ブリュナをはじめ10人ほどのフランス人を雇います。
同時に製糸場で働く女性の募集をかけたのですが、当時はまだ開国して20年足らずで
外国人がめづらしい時代でした。
そのためフランス人が赤ワインを飲む姿を「あれは人間の生き血を飲んでいる」と思い込み、「富岡製糸場へ行くと外国人に生き血をとられる」という噂が広まり工女さんがなかなか集まりませんでした。
1872年(明治5年)7月には製糸場の主な建造物が完成し、10月4日には操業がはじまります。
4年後の1876年(明治9年)には外国人指導者が去り日本人だけでの操業となりました。
高品質の生糸は海外で高く評価され外貨の獲得に大きく貢献します。
(115年の歴史に幕)
官営工場としてスタートした製糸場は、1893年(明治26年)に、三井家に払い下げされました。
そして1987年(昭和62年)に操業を停止するまでの115年の間、製糸場は稼働し続けました。
現在、ほぼ創業当初の状態で良好に保存されていて、国宝であると同時に世界文化遺産にもなっています。
10月4日は明治期から日本の外貨獲得に大きく貢献した