日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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河童で有名な筑後川が流れる久留米市で開催された「久留米水の祭典・かっぱ祭り」でカッパの手のミイラを神輿で担いだ男がいた!!

もしも、単なる普通のおっさんが、

カッパの手のミイラの御神輿を担いだことがある・・
そんな人だったら・・・あなたはどう思いますか・・
カッパの手のミイラを神輿で担いだ、
世の中でそんな経験をした人はそういないと思います。
その男こそが、私です!!
(福岡県久留米市を流れる筑後川
おっさんは福岡県久留米市で生まれ育ちました。
久留米市には筑紫次郎の別名を持つ筑後川が流れます。

そして川沿いには全国にある水天宮の総本宮である久留米水天宮があります。

水天宮に関しては下をクリックして御覧下さい↓

筑後川はカッパで有名)
この筑後川は、カッパでも有名です。
地元では、以下の3つのカッパの話が伝わっています。
(1)水天宮と九千坊河童

九千坊河童(くせんぼうかっぱ)というカッパがいて、その一族は九千匹もいたとされます。
もとは熊本に棲んでいましたが、その傍若無人ぶりで加藤清正に追い出されます。
そして、悪さをしないことを条件に、久留米藩の有馬の殿様から筑後川に棲むことを
許されます。
そのことに九千坊河童は感謝し、以後、水天宮の御護り役として、領民を水害から守る事を誓ったとされます。

(2)田主丸の巨瀬入道(こせにゅうどう)とカッパの手のミイラ

田主丸町はカッパにまつわる話が複数あります。
源平合戦で敗れた平氏の一門がカッパになったという伝説は各地にありますが、ここ田主丸にも1675年(延宝3年)に書かれた「北筑雑藁(きたちくざっこう)」という書物の中に平家の大将・平清盛が、巨瀬入道という名の河童になったという記述があります。そして、この巨瀬入道は久留米市東部を流れる筑後川の支流である巨瀬川の主となったそうです。
また、田主丸には、カッパの手のミイラがあります。この手は、馬の尾を摑んで川に引き込もうとしたところを侍に切り落とされたものと言われています。

(3)北野天満宮のカッパの手のミイラ

久留米市北野町にある北野天満宮には、河童の手のミイラが保管されています。
この手は、菅原道真が京都から大宰府へ向う途中、河童が藤原時平の追討から助けようとして切り落とされた手とする説や、河童から川に引き込まれそうになった道真が切り落とした手とする説などがあります。
かつては一般公開していたそうですが、2024年(令和6年)に電話で「見たいのですが。。」と相談したら、「もう公開していません」とのことでした。

(カッパの手のミイラを担いだ男・・それは私!)

さて、このようにカッパ伝説が伝えられる福岡県久留米市での体験談を紹介します。
ピンクレディーが歌う「カルメン77」が街に流れていた1977年(昭和52年)8月のことです。

久留米では、8月の頭に「久留米 水の祭典 かっぱ祭り」というお祭りがあり、西鉄久留米駅周辺のメーンストリートである明治通りを色々な団体が踊りながら歩きます。

当時、小学生だったおっさんは、子供会の関係で、このかっぱ祭りに参加し、御神輿を担ぐ人に選ばれました。

その神輿の中には、なんと筑後川にいたという河童の手のミイラが入っていました。

カッパですよ、河童!!かっぱ!!

当時小学生だったおっさんは、「カッパの手」があるということで大興奮しました!!
そのカッパの手を神輿で担ぐ役に選ばれたのです。もう大興奮です。
そして恐る恐るカッパの手を見ると、それは「干からびて骨だけの細いものだなあ」と感じ「水かきがない」ことに気がつきました。

久留米には河童にまつわる話があり、北野町の北野天満宮田主丸町の2カ所には、それぞれカッパの手のミイラがあるというので、おっさんが担いだのは、そのどちらかの可能性が高いようです。

こうして、小学生のおっさんは、8月の久留米の街を、カッパの手のミイラを担いでまわったのです。

あれから時は流れ幾星霜・・・・

カッパのミイラの神輿を担いだ男。
・・・そんな人は世の中には、そうはいないと思います。

その貴重なカッパのミイラを神輿で担いだ男・・・
それが私です!!