8月27日、1人の飛行機乗りが戦死します。
篠原弘道准尉。
3カ月で58機を撃墜した
帝国陸軍航空隊無双のトップエースです。
(愛機は九七戦闘機)
篠原は栃木県出身。1931年(昭和6年)に現役志願兵として陸軍に入隊し、2年後に航空兵に転科して所沢飛行学校に入校します。
1939年(昭和14年)5月から9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡ってノモンハン事件は発生します。
このとき、篠原はノモンハンで飛行第11戦隊第一中隊に所属します。愛機は九七式戦闘機です。九七戦闘機は旋回性に優れていました。下の写真を見てわかるように当時はまだ脚が固定式でした。
(初陣でいきなり4機撃墜、翌日は5機)
同年5月27日、篠原は初陣を果たします。この初陣でI-16、4機を撃墜します。 翌28日には5機を撃墜します。
飛行機の性能の違いがあるので単純比較はできませんが、日中戦争から終戦までの期間で、初陣から丸2日間で9機の撃墜を記録したパイロットは篠原だけです。
ちなみに5月28日の日ソ空中戦では、「日本軍がソ連の攻撃機3機、戦闘機36機を撃墜したのに対し日本軍は1機も損失がない」という完全勝利を成し遂げています。
このようにノモンハンでの日ソ空中戦での活躍で、操縦者たちは「ホロンバイルの荒鷲」と呼ばれました。
(1日に11機撃墜)
6月27日に、日本軍はモンゴル後方にある基地のタムスクに大規模な空襲を行い、関東軍は「撃墜98機、大破18機、中小破38機の合計149機を撃墜破する大戦果」を参謀本部に報告しています。
この時、篠原は11機の敵機を撃墜しています。1日に11機撃墜と言う、この記録を上回るのは、1日に12機を撃墜したドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマンだけです。
(篠原機には撃墜した数の星マーク)
篠原は愛機の側面に撃墜した数の星を描いていました。撃墜するごとにその星の数が増えていきましたが、途中からはもう書くスペースがないと話していました。け
篠原は、その活躍から「国境の撃墜王」「東洋のリヒトホーフェン」などの呼び名がつけられ、その活躍は新聞雑誌などで紹介されました。
(撃墜王の最期)
1929年(昭和14年)8月27日、篠原は爆撃機を護衛します。途中、敵機を3機撃墜しましたが、攻撃を受け燃料タンクに被弾します。機体は炎上しモホレヒ湖付近に墜落。篠原は戦死します。享年26。
下の写真は回収された篠原の遺品です。
【出典:
初陣5月27日から戦死の8月27にまではちょうど3か月。その3か月間で篠原は58機を撃墜しています。太平洋戦争を含めても篠原を超えるスコアを記録したパイロットは陸海軍ともにいません。
戦死後、彼は准尉から少尉に特進しました。