大正時代に三井・三菱をしのいだ日本1の総合商社の名残が今も九州に残る!!
(鈴木商店とは?)
大正期に日本一の年商を誇った総合商社「鈴木商店」は1917年(大正6)年の売上が当時の日本のGNPの1割に匹敵し、三井物産、三菱商事を抜き日本一の総合商社となります。そのころ、スエズ運河を通過する船の1割は鈴木商店の船と言われるほどです。
1914年に勃発した第一次世界大戦で鈴木商店は経営を拡大し、欧州大陸で塹壕に使われた土嚢には、菱形にSUZUKIの略記「SZK」という鈴木商店のロゴが入った小麦袋が大量に使われたといいます。
(鈴木商店の終焉)
しかし、第一次大戦の終了とともに需要が減少し、さらに1923年(大正12年)に起きた関東大震災などの影響で経営状況は悪化します。
鈴木商店は、株式を上場せずに銀行からの借り入れだけで資金運用していて、
資本金1億3000万円に対し借入金が10億円を超えます。
そして、1927年(昭和2年)3月、当時の大蔵大臣の「とうとう東京渡辺銀行が破綻した」との失言が原因で本当に東京渡辺銀行が経営破綻し他行でも取り付け騒ぎが発生。鈴木商店を支えていた台湾銀行が、新規融資の打ち切りを通告したため鈴木商店は事業停止となり、その歴史に幕を閉じました。
JR門司駅から関門海峡に歩いてすぐの福岡県北九州市門司区大里本町。
以前紹介しましたように、平安時代に安徳天皇を伴った平家一行が「柳の御所」を設けたことにより門司駅を中心として南北に広がる地域が、内裏(だいり)と呼ばれ、やがて漢字が、「大里」と変わりました。
この大里には、鈴木商店の名残が100年たった今でも残っていて「近代化遺産」になっています。レンガ造りがレトロ感を引き立てますね。
もともと明治初期の大里は、参勤交代で利用された長崎街道の宿場町であり、同時に塩田が広がる漁村でありました。
良質な水、筑豊の豊富な石炭と労働力、そして海に面して輸送に便利だということに着目し、1903年(明治36年)に、鈴木商店は大里製糖所を設立。以後、大里製粉所、帝国麦酒、大里酒精製造所、大里製塩所、大里精米所等を次々と設立し、大里に鈴木コンツェルンを形成します。
今の赤煉瓦の建物が残り地区は門司麦酒煉瓦プレイスと呼ばれ、1913年(大正2年)に帝国麦酒株式会社として建設されました。
サクラビールと言う名前のビールを醸造・販売していましたが、合併や分割を経て、最終的にサッポロビールとして2000年(平成12年)まで操業していました。
(旧帝国麦酒九州工場醸造練)
1913年(大正2年)創業の九州初のビール工場。平成12年度まで醸造所として稼動していました。 内部には戦前期のドイツ製醸造機器が保管されており、大変貴重です。
明治末期に、日本ではビールの消費が伸びました。そこで「帝国麦酒株式会社」ができました。現在の、サッポロビールです。今は1階に飲食店が入っています。
(帝国麦酒事務所)
1912年(大正2年)帝国麦酒門司工場事務所として建てられました。
日本における最初期の鉱滓煉瓦建物で、現存する最古の本格的鉱滓煉瓦建築だそうです。初期工業学校建築家出身者 林栄次郎による設計建築の意匠及び技術水準が刻印されており大変貴重なものだということです。
現在は、門司麦酒煉瓦館としてビールの歴史を伝えたり、イベントを行っています。
(倉庫)
1912年(大正2年)竣工。
現在はイベントホールとして人気です。
建設から100年が経過した今では、 門司麦酒煉瓦館、醸造棟、倉庫跡は歴史的価値を認められ国の有形文化財に登録されてています。また赤レンガのレトロ調が人気で観光スポットとなっています。
大里には鈴木商店当時の煉瓦造りの建造物が多く残り、その多くは近代化産業遺産として親しまれています。
鈴木商店の流れを汲む企業は、帝人、神戸製鉄所、サッポロビール、太平洋セメント、昭和シェル石油、三井住友海上火災、双日、など今も日本の大企業ぞろいです。
<<門司赤煉瓦プレイスへの行き方>>
JR門司駅から徒歩4分程度
●関連HP
門司赤煉瓦倶楽部公式HP
北九州情報発信強化委員会HP
北九州市役所HP
ここで注意!!
この門司赤煉瓦プレイスの最寄りの駅は「JR門司駅」です。
レトロチックは駅舎の門司港駅や観光地の門司港レトロ地区があるのは「JR門司港駅」です。間違えないように!!