九州の交通の要所として栄えた常盤橋
福岡県北九州市の小倉を流れる紫川。
この紫川に江戸時代から、かかっているのが常盤橋(ときわばし)。
小倉城主の細川忠興が1602年に城郭を開いたときに橋が架け、当初は大橋と呼ばれ、元禄時代の1692年にかけ替えたときに常盤橋と呼ばれるようになったそうです。
(町人の地域と武士の地域をつないだ常盤橋)
常盤橋は、小倉の城下町の「主として町人が生活していた地域」と「主として武士が生活していた地域」を結ぶ重要な橋として架けられていました。
下の地図(北九州市から頂いたアクセスマップ)の青で囲んだのが常盤橋。
その右側が「主として町人が生活していた地域」で東曲輪(ひがしくるわ)、
左側が「主として武士が生活していた地域」の西曲輪(にしくるわ)。
西曲輪には小倉城がありますね。だから周辺は武士が生活していました。
(街道の要所)
現在、常盤橋がかかっている地域からすぐ近い場所にある、商業施設のリバーウォーク北九州がある室町地区周辺は、江戸時代は、小倉城の城下町として栄えていました。
また、常盤橋は、小倉から九州各地にのびる諸街道のスタート及び終点でもありました。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還の5つを「小倉の五街道」と呼びますが、そのすべてがこの橋につながっていました。
つまり、この橋が九州の交通の要所だったのです。
長崎街道は、小倉から長崎まで25宿、57里、228キロの道のりで、ここを参勤交代の諸大名が通り、常盤橋の近くの港から下関に渡っていました。また、当時西洋との窓口であった長崎から砂糖や西洋文化などもここを通って京都や江戸にもたらされました。
以前、ブログで長崎街道大里宿を紹介しましたが、江戸に行くのには、大里を行くパターンと、この常盤橋から船で下関まで行くパターンがあったようです。
参考:https://reiwa00502.hatenablog.com/archive/2019/05/26
福岡、熊本、薩摩藩など長崎街道を利用した諸藩は小倉に本陣を持っていました。
そのため、この常盤橋周辺は幕府の役人や九州の諸大名、商人あるいは旅人が利用する宿場町として栄え、にぎわっていました。
【↑常盤橋看板より】
(常盤橋を渡った人や物)
この橋は、正確な日本地図を作った伊能忠敬、ドイツの医師シーボルトも使いました。また、オランダ商館カピタン一行が将軍への献上品を持ち江戸へ向かった時にも
利用しています。
さらに、将軍吉宗の時代には、象がベトナムから長崎に上陸し、この橋を渡って京都の天皇や江戸の将軍に会うために渡って行きました。
また、常盤橋は、シーボルトの著書「日本」でも紹介されています。
【↑常盤橋の掲示板より】
(今も残る石の橋脚)
橋は何度も洪水で流されたそうです。木で作られていた橋だったが、木は腐ってしまい朽ち果てることが多かったため、やがて石のくいが造られ強度が強くなりました。
その当時の石くいは、常盤橋のたもとに残っています。
(九州測量の出発地)
また、この橋は正確な日本地図を作った伊能忠敬が九州での測量を開始した出発地でもあり、記念碑が建てられています。
(明治以降)
常盤橋は、明治時代になっても商業都市・小倉の重要な橋として、その役割を果たしました。
【↑明治時代の常盤橋周辺(常盤橋案内版より)】
以前紹介した、小倉県庁庁舎はこの常盤橋から歩いて5分の長崎街道沿いにありました。
そのことを書いたブログはここ→小倉県庁跡 - 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!
江戸時代から明治にかけて、この橋は、かつては多くの大名、偉人、庶民、文化、などが通り過ぎていきました。
いまでは、主要道路が近くに出来たため、この橋を渡る人も少なくなってしまい江戸時代に交通の要所として賑わった面影もありません。
<<常盤橋への行き方>>
JR小倉駅から徒歩10分
北九州市公式HP https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokurakita/file_0093.html